女たちの自由への欲求

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日本では、結婚式にのぞむ新婦を「花嫁さん」と呼び習わしている。結婚したての女性のことを、祝福のニュアンスを込めて、そう呼ぶこともある。おそらく、長い人生からみれば「花嫁さん」という存在が、ほんのひととき現実から隔離された存在であることを、大人たちが知っているからに違いない。花嫁というのは、繭に包まれた幸福な存在なんだよね、普通は。

ところが、先日アルテリオで観た映画「シリアの花嫁」に登場する花嫁モナと家族にとっては、そこのところがじつに微妙である。生まれ育ったゴラン高原の村から、本国シリアで待つ花婿のもとへ嫁いでいくことが、彼女を育んでくれた土地や家族との永遠の別れに直結しているからだ。境界線を超えてシリア側へ踏み出してしまえば、もはや後戻りはできない。たとえ親元に戻りたくなったしても、おそらく二度と故郷の村に足を踏み入れることができない複雑な状況を、観客もスクリーンを通して少しずつ理解していく。

舞台となっているゴラン高原は、もともとシリア領だった。しかし、1967年の第三次中東戦争時にイスラエルによって占拠され、いまもって本国シリアとは軍事境界線で分断されたままの状態である。シリア側がゴラン高原をシリア領と考えているのは当然のことだが、占領側のイスラエルもゴラン高原を自国の領土とみなしている。住民たちにもイスラエルへの服従を強いている。住人たちのパスポートの国籍欄には、無国籍者と記されている。彼らはイスラエルの手で人為的に分断された牢獄に住んでいるようなものである。

花嫁モナの一家は、イスラムの少数派であるドゥルーズ派に属している。一家だけでなく、ドゥルーズ派の村なのかも知れない。どこまで真実か分からないけれど、長老支配がすみずみまで行き渡っていて、花嫁モナの嫁ぎ先も、おそらく長老たちが決めたことなのだろう。閉じられた場所に息づいているがために、ここのドゥルーズ派は、よけいに頑迷の度を深めているのかも知れない。

政治的、宗教的、民族的に対立するイスラエルという国とシリアという国の狭間で揺れ動く家族。自由が許されない、息苦しいまでに保守的な男社会から遠くへ遠くへ飛び出したい思いに突き動かされる女たち。境界を超えた先にも、ひょっとしたら、もうひとつの牢獄が待っているだけなのかも知れないのに。そうと分かっていても抑えがたい思い。

もし遠い将来、万に一つでも、この複雑な中東社会に変化が起きるとしたら。その原動力となるのは、きっと、ここに登場する花嫁モナ、その姉、その母のような存在、つまり普通の女たちの強い思いに違いない。そんなことを夢想したくなるほど、この映画には、女たちの、自由への抑えがたい欲求が溢れている。ラストシーンで、軍事境界ゾーンをゆっくり歩み出して行くモナの背中には、凛とした強さが漂っていた。



by naomemo | 2009-09-17 06:13 | シネマパラダイス

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早朝の森のなかは、すでに秋の虫の音でいっぱいである。今年は、残暑とも無縁、ということになるのかも知れないな。

先週土曜日はいつものようにスポーツジムでゆっくり汗を流したり、痛めている肩のリハビリに行ったり、そして夜には連れ合いと久しぶりに多摩川の花火大会を観に行ったりして過ごした。帰りがけに、毎年観に来ているという知り合いとバッタリ会ったが、これほどの人出は初めてだとか。休日を近場で過ごす人が増えているのかも知れない。

日曜日は、新百合ケ丘まで足をのばす。アルテリオ映像館(川崎アートセンター内)で「シリアの花嫁」を観たり、本屋をブラブラしたり、レコード屋でCDを物色したりしたのち、のんびり帰宅。家の中のことをいくつか片付け、来週日曜日の衆議院選挙の期日前投票に出かけ、一票を投じてくる。それにしても、自民か民主か、という二元論になっているのが気になる。「郵政に賛成か反対か」がもたらしたのと、けっきょく同様のことになるのではないかと心配である。小選挙区制度見直しに、もう一票を投じたい気分である。

「シリアの花嫁」の感想は、後日。

ところでアルテリオ映像館に足を運んだのは初めてなのだが、驚いたのは、そこには今村昌平がカンヌ映画祭で貰ったパルムドールの実物が展示してあったことだ。くわしい事情は知らないが、ちょいと調べてみたら、どうやら今村昌平が発起人となってできた日本映画学校が昭和60年に新百合ケ丘に移転、おそらくその流れが起点となって「しんゆり映画祭」が動きだし、やがてアルテリオという単館系の映画上映館の開設へ、ということだったのではないか。それにしても単館系の映画上映館を維持するのは、容易なことではないはずだ。アルテリオの会員になったので、これからときどき足を運ぼうと思う。

それにしてもパルムドール(黄金のしゅろ)は一見の価値ありですよ。

by naomemo | 2009-08-24 08:30 | シネマパラダイス

見逃している映画


さほど忙しいわけでもないのに、ぜひ観たいと思いつつ見逃した映画が今年もいくつかある。

「ロルナの祈り」。昨年末、恵比寿で予告編を観て、なかなか面白そうじゃんと思ったのにね。でも、たしか来週末から三軒茶屋で上映されるので、見逃さないようにしなくちゃ。



「英国王 給仕人に乾杯」。これについては、じつはチケットが手元にあったにも関わらず、見逃した。ある日、仕事を終えて有楽町の映画館に向かっていたら、バッグのサイドポケットに突っ込んである携帯が震えた。あー、残念。でも、近々、早稲田松竹でやるようなので忘れないようにしないとね。



「四川のうた」。これもどこかで予告編を観て、気になって候補に入れていたのだが、見逃した。



「シリアの花嫁」。これは、明日から2週間、クルマで20分ほどの新百合ケ丘の「アルテリオ・シネマ」で上映が決まっている。ここはまだ行ったことがないから、行ってみよう。



「そして、私たちは愛にかえる」。ロードショウの後、飯田橋のギンレイに回ったようなのだが、見逃した。名画座情報を調べても、いまのところ上映の予定はない。観られないとなると、なおさら気持ちが募るものだな。



それにしても、映画の感想って、ほとんど自動的に「芋づる式」に言葉が出てくる場合もあれば、何度も何度も反芻しないと言葉にならない場合もあるのだよね。映画の善し悪しとは関係ないようなんだけど、なんでだろうなあ。

ずいぶん時間が経っているのに、まだ感想を書いていないものもある。「マンマ・ミーア」、「Into The Wild」、「レスラー」、「ディア・ドクター」、「それでも恋するバルセロナ」。それぞれ面白さはあるのだが、なんとなく手が動かない。なにかきっかけが必要なのかも知れない。 そのうちに、一作品ごとに一行コメントでも書いてみるか。

by naomemo | 2009-08-21 07:15 | シネマパラダイス

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先週の金曜日、仕事帰りに三軒茶屋で途中下車。三軒茶屋中央劇場に立ち寄り中東レバノンの映画「キャラメル」を観る。最近、中東映画が面白いと聞いていたが、この作品も例外ではなかった。

レバノンといえば「内戦」とか「テロ」という言葉と分ちがたく結びついていて、政治対立や宗教対立の激しい国というイメージがある。それはたしかにひとつの真実だろうが、この映画を観ると、マスコミを通じて知る中東についての情報がいかに偏っているかを、あらためて感じる。

舞台は、首都ベイルートの小さなエステサロン(ヘア&エステ)。女性が「美しさ」を求めて通う場所であるエステサロンが、名作「スモーク」の煙草屋のように、この映画のヘソになっている。ここは、登場人物たちが、自分をさらけ出し、支え合い、許し合える、ある種の避難場所、あるいは公然たる秘密の場所といってもいいかも知れない。

サロンに出入りする常連メンバーは5人の女性。オーナーのラヤール(キリスト教徒・30歳)は妻子ある男性との不倫に揺れ、ヘア担当のニスリン(イスラム教徒・26歳)は結婚を間近に控え婚約者にも実母にも明かせない秘密に揺れ、シャンプー担当のリマ(24歳)は黒髪の女性客に気持ちが揺れ、常連客のジャマル(年齢不詳)は年齢という現実に揺れつつオーディションを受け続け、そしてサロンのご近所で老いた姉を抱えながら仕立屋を営むローズ(60歳)は別の人生への一歩に揺れる。それぞれが、それぞれの問題を抱えながら揺れ動くシーンが、淡々と、美しく、ユーモラスに、親密なまなざしで描かれて行く。大きな事件などは、ひとつもない。

たとえばローズの場合。逢い引きに出かける準備をするシーンで、老いた姉の嫉妬に手を焼き、部屋に閉じ込める。でも、結局出かけるのを諦め、化粧を落とす。鏡に映ったローズの表情は胸に迫るものがある。たとえばニスリンの場合。嫁ぐ前夜、実母が、初夜の心構えや妻としての心構えを伝えるなかで、こんなセリフを言う。「先の人生は神様だけがご存知。メロンと同じで切ってみるまで分からない」。毎度、毎度の内戦やテロの報道の裏に、ささやかだけれど、しかし宝石のような人生の断片があるのだよね。

そうだ、だいじなことをひとつ。物語の終盤に、サロンのオーナーに心を寄せる警官がエステにやってくるシーンがある。彼は「キャラメル」で脱毛され、ヒゲを剃られるのだ。男社会に対する、ナディーン・ラバキーからの優しくも強烈なパンチである。ちなみに、「キャラメル」は、中東では女性の脱毛に使われるものだそうだ。重要な小道具として、たびたび登場する。

監督:ナディーン・ラバキー/脚本:ナディーン・ラバキー、ジハード・ホジェイリー、ロドニー・アル=ハッダード/音楽:ハーレド・ムザンナル/キャスト:(オーナーのラヤール)ナディーン・ラバキー、(ヘア担当のニスリン)ヤスミーン・アル=マスリー、(シャンプー担当のリマ)ジョアンナ・ムカルゼル、(ジャマル)ジゼル・アウワード、(仕立て屋ローズ)シハーム・ハッダード。信じがたいけれど、ニスリン役も、リマ役も、ジャマル役も、ローズ役も、プロの役者ではなく、全員がそれぞれ仕事を持つ素人を起用しているそうだ。きっと役者の生かし方が素晴らしいのだろう。



by naomemo | 2009-08-18 07:55 | シネマパラダイス

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以前、渋滞に巻き込まれて「劔岳 — 点の記」を見逃したことを書いたが、やっとありついた。久々に正統派の日本映画を観た気分になった。

なにはさておき、壮大な自然がどんと真ん中にあり、そこに人間のドラマが織り込まれるという作法がいいね。北アルプス立山連峰の映像が、とてつもなく美しい。さすが腕利きのカメラマンが監督しているだけのことはある。その映像に酔いつつ、しかし、あれれ?と訝しく感じたのが、ヴィヴァルディ、ヘンデル、バッハなどのバロック音楽が使われていることだった。しばらくのあいだ、ミスマッチじゃないの?と気になった。

なかでも何度も登場するヴィヴァルディは、海の都ヴェネツィアが生んだ音楽家である。その音楽のそこかしこには潮の香りが漂っているのだ。それを山の映画に使うとは、という思いがしばらく拭えなかった。けれど、不思議なもので、観ているうちに違和感が薄れて馴染んできた。ヴィヴァルディの「四季」は、潮の香より季節の匂いが勝っているということなんだなと、再認識する機会にもなった。そのように持っていった音楽監督に拍手なのかな。

時代は明治40年(1907年)。日露戦争後、陸軍が国防のために日本地図の完成を急いでいた時期。その日本地図に残された最後の空白地帯、北アルプス立山連峰を埋めるべく、陸軍参謀本部陸地測量部の測量手・柴崎芳太郎に命令が下る。劔岳に登頂し、三角点標識を設置して測量を行うべしと。

しかしことは容易ではない。劔岳はたんなる山ではない。立山修験という山岳信仰の対象であり、ご神体なのだ。そして同時に「地獄の針の山」として畏れられている峻険な山でもある。あだやおそろかに登頂などしてはならないし、登頂できるものでもないのだ。それが「土地の気分」として濃厚に漂う。案内人として協力を惜しまない宇治長次郎などは、村八分のような扱いを受けているように見える。

劔岳への初登頂を目指すライバルとして、創設して間もない日本山岳会が登場する。もちろんメディアが見過ごすはずもない。お決まりのごとく、陸軍が勝つか山岳会が勝つかと騒ぎ立てる。メディアが騒げば騒ぐほど、陸軍サイドは「威信にかけて」初登頂を成し遂げよと測量隊にプレッシャーをかける。メンツというのは恐ろしいものだ。いつのまにか本来の目的や意味が打ち捨てられてしまうのだから。

結果としては、測量隊が初登頂を遂げるのだが、登頂のヒントになったのは、「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」という千年前から言い伝えられている行者の言葉だった。

ところどころだれる場面が散見された。もう少し冷たく突き放して編集できたのではという気もする。とはいえ、それもこれも、美しい映像と、骨太の物語と、案内人を演ずる香川照之の素晴らしい演技が埋め合わせてくれた。彼の、案内人としての、その話し方、その表情、その仕草、その歩き方は、まあ、みごとというほかない。楽しみました。



by naomemo | 2009-08-15 07:25 | シネマパラダイス

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戦争の忌まわしい記憶を絶対に風化させてはならない。長い歴史のなかで幾度も悲惨な状況を経験してきた欧州には、二度と戦争を起こしたくないという強い志のようなものがあるようだ。その志が第二次大戦後60年以上経過したいまも引き継がれており、ときおり映画にも色濃く現れる。ともすると戦争讃歌とも受け取れる映画を好んで製作する米国とは、一線を画すところだと思う。

物語は、一人の男が、窓から外を覗くシーンから始まる。映画の文法にのっとって、窓は、タイムスリップの装置として存在している。通りを走る電車の中に、少年の姿が見える。その少年が、こんどは男の方を見返す。現在からの視線と過去からの視線が交錯し、観客の視線に重なっていく。

1958年。復興途上にあるドイツ。ティーンエイジャーのマイケルは、20歳ほど年上の女性ハンナと偶然出会う。そして恋に落ちる。マイケルはそれを求め、ハンナはそれを受け入れる。ハンナが進んで求めたようにも見える。30代半ばの女性が、10代半ばの少年を、それほどたやすく受け入れるものだろうか?孤独ゆえだろうか?観客は、ひとつの「?」を抱えたまま、物語に身を委ねる。

ハンナは物語をこよなく愛している。しかし、自分から本を読むことはない。いつもマイケルに朗読を頼む。いつのまにか、マイケルに身を委ねるのと、マイケルの朗読に身をゆだねているのと、ほとんど等価のように見えてくる。というより、ハンナは朗読の見返りに身を委ねているように見える。この不思議な関係はいつまで続くのだろうと思い始めた矢先に、ハンナは、市電の車掌としての仕事ぶりが会社から評価され、内勤への異動を命じられる。

ハンナはマイケルの前から姿を消す。映像では紹介されないが、マイケルはハンナの行き先を求めて、あちこち探しまわったに違いない。しかし、杳として行方は知れず。なぜ彼女が去ったのか、マイケルには思い当たる理由はなにもない。観客にも、その理由は明かされない。だから観客も、マイケルの気持ちに寄り添って、時の流れに身を委ねることになる。

1966年。法学生となったマイケルが授業の一環で傍聴することになった裁判の被告席に、ハンナが登場する。ハンナは、戦争中、看守としてナチに加担した罪を問われ、裁かれる女性達の一人としてそこにいた。彼女は、一緒に裁かれる女性達の不当な証言を受け入れて、無期懲役の判決を受け入れる。受け入れる必要のない罪まで、なぜ受け入れる気になったのか。彼女は何を隠しているのか。かつて何を隠していたのか。ひと夏のこととはいえ、ハンナと愛し合ったマイケルだけは、その理由を理解する。そして同時に観客も知らされることになる。それにしてもなぜ?という思いが残りはするが。

1976年。裁判から10年。弁護士になり、結婚と離婚を経験したマイケルは、ふたたびハンナの朗読者になることを決意する。オデュッセイ、ドクトル・ジバゴなど、何冊も何冊も、テープレコーダーに向かって朗読し、録音し、獄中のハンナに送り続ける。その録音テープから流れる朗読が、ハンナの生きる糧となる。それは彼女にとって、かけがえのないものだったに違いない。

さらに幾歳月が過ぎ、老いたアンナは釈放されることになる。マイケルは刑務所の担当官からの連絡で知らされ、面会に訪れる。刑務所の担当官からの依頼で、落ち着き先やら仕事やらを手当してある。が、その面会で、マイケルはハンナに問う。過去の出来事をどう考えているのか、と。彼女は答える。Dead is dead=亡くなった人は生き返らない、と。この期に及んで、そんな質問をするところに、マイケルが抱え込んできた、愛やら苦しみやら恨みやらが如実に表れている。そしてハンナの失踪ゆえに負うことになった精神的な未熟さも露になっている。

エンディングがしばし不可解だった。いろんな意見があるだろう。しかし、いまは、この初老を迎えた男の未熟さを強調するための方法なのだろうなと、僕は思っている。脚本:デヴィッド・ヘア、監督:スティーブン・ダルドリー。彼らは、「めぐりあう時間たち」に続き、素晴らしい作品を届けてくれた。抑制の利いたダルドリーの演出に、拍手。ハンナ役:ケイト・ウィンシュレットの演技も二重丸である。



by naomemo | 2009-07-24 09:14 | シネマパラダイス



この週末は、映画を二本。まずは金曜日の夜、仕事帰りに世田谷三軒茶屋で途中下車し、三軒茶屋中央劇場へ。

ここは古くからある名画座(旧作二本立て)だし、名前もおよその場所も知ってはいたのだが、これまで足を踏み入れたことはなかった。今回が初めて。座席数262席、いかにも場末の映画館といった風情。この、都心の、世田谷にある場末の映画館って、まるでタイムマシンに乗って何十年も時代をさかのぼったような感じで、なかなかいい。ここで、昨年公開されたが見逃していた、脚本監督ショーンペンの「into the wild(荒野へ)」を観た。映画の感想はそのうちに。

土曜日は、仕事。他に予定もあり、休みというのにけっこう忙しい。で、日曜日、午前中ジムでしっかり汗を流し、午後になって連れ合いと港北のワーナーマイカルへ。そこで「剣岳」を観る予定だったのが、なんと渋滞に巻き込まれて間に合わず、急遽「The reader 愛を読むひと」に切り替える。漠然と予想していたストーリーとは、ずいぶん違っていて、しっかり堪能した。この感想も、ちかぢか。

それにしても残念だったのは、「into the wild(荒野へ)」にしても、「The reader 愛を読むひと」にしても、客の入りが芳しくなかったことだ。著しく。どちらも素晴らしい作品なのに、ガラガラ。その一方、「剣岳」の方は、「僅少」という文字がボードに表示されていた。

邦画に人気が集まるのは、もちろん結構なことだと思う。でも、ここまで洋画人気が低迷しているのは、やはり気になる。しかも、これは、映画だけの話ではない。洋楽マーケットも急速に萎んでいるというし、ひょっとしたら小説などの分野でも同様の傾向が出ているかも知れない。あまりに内向きすぎるのではないだろうか。経済不況が長引けば、この傾向は長引くということか。

でも、ま、何事も考えようです。洋画を観て歩くには、とてもよい時代だと考えることにしよう。なにはともあれ、ゆったり楽しめるのだから。

by naomemo | 2009-06-21 07:00 | シネマパラダイス

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友人の友人に、数年前、筋無力症で1年半ほど入院治療を受けていた女性がいる。伝え聞くところによれば、彼女は、2年ほど前からスペイン語の猛勉強を始めたという。そして、この5月中旬に、バッグパックをひとつ背負い、サンティアゴ巡礼800キロの旅に出たのだという。

昨晩、友人から届いたメールによれば、ゴールまで100キロを切ったとか。このペースなら、今週末には目指すサンティアゴに到着するだろう。筋無力症だった人が、一月で800キロを踏破するなんて、にわかには信じ難いが、強い思いは、岩をも貫くことがあるということか。ちょっと感動です。

スペイン語の特訓を始めたのが、2年ほど前というから、ひょっとしたら日本でも公開されたフランス映画「サンジャックへの道」がキッカケになったのかも知れない(サンジャックとは、サンティアゴのフランス語読み)。僕も、ピレネー越えの風景が美しいと聞いて、当時、銀座まで観に出かけたのだった。

記憶はおぼろだが、この際だから、ざっと思い起こしてみる。ある日、兄(やり手のビジネスマン)、妹(性格のキツイしっかり者の教師)、弟(アル中気味の無一文)の三人が、弁護士に呼び出される。母親が亡くなり、遺言状を託されているのだという。

それなりの遺産があるようなのだが、彼らが相続する上で条件が一つあるという。聞いてみれば、フランスのル・ピュイから、スペインの西の果てにある聖地サンティアゴまで、1500キロにおよぶ巡礼路を、三人一緒に歩くことだという。一人でも欠けたら、遺産はどこかへ寄贈されることになるという。

ブツブツ文句を言うものの、けっきょくは長期休暇を取り、ガイド付き総勢十名ほどの巡礼グループに加わって、珍道中が始まる。それぞれが、それぞれの思いを抱えながらの巡礼である。

毎日、毎日の長駆に、足の皮は剥がれるは、足に痛みは出てくるは、疲労で文句やら愚痴やらは出てくるは、兄弟ゲンカは始まるは、自我はむき出しになるは、幻想を見るようになるは、もう散々である。しかし、いつしか、世間のアカが落ち、意固地も取れ始め、仲の悪かった三人が、お互いを思いやるようになってくる。毎日、毎日、数十キロの道のりを歩き続けるうちに、浄化作用が生まれてくるということなのだろう。巡礼の意味は、ひょっとしたら、この「歩くこと」そのものにあるのかも知れない。

ロードムビーといえば米国の専売特許と思っていたが、フランスにもこういう映画があるんだね。思わぬエンディングもあって楽しめる一編となっている。旅行好きなら、きっと歩いてみたくなるだろうね。

by naomemo | 2009-06-16 07:10 | シネマパラダイス



昨年から日本では急速に洋画離れが進んでいると聞く。映画業界に住む友人の話によれば、その落ち込みは半端じゃないという。一人の映画ファンとしても気になるので、ちょっと思いを巡らせてみたい。

映画館やら映画DVDに関する市場データがどうなっているのか知らないが、見聞するところによれば、とくに若者たちの洋画離れが顕著のようだ。その一方で、邦画は数年前から元気だという。いったいなにが起きているのだろう。

映画館全体が元気ないというなら、薄型テレビ普及の加速、レンタルショップのネットワーク拡大、DVD化までの期間短縮、シネコンの過剰出店などが理由に挙げられるだろう。でも、邦画は元気だというのだから、理由は別のところにありそうだ。

字幕が敬遠されているのではないかという意見もあるようだが、それが今回の急速な洋画離れの理由とは考えにくい。だって、いきなり1年前から字幕が総スカンを食らうなんてことは考えにくいもんね。消費不況による節約ムードというのも、大きな背景ではあるだろうとは思うが、洋画離れそのものとは直接には結びつきにくい。

ひょっとしたら、金融危機を通じて見えてきた、米国(とくにニョーヨークの金融だけど)の強欲に対する嫌悪感が芽生えているのかも知れない。つまり、反感ってやつだね。あるいは、世界中が大不況にあることから、内向き志向が台頭しつつある兆しということは言えるかも知れない。その意味で、こうした傾向は、日本だけじゃなく世界的に見られることなのかも知れない。

もうひとつ。特別な根拠はないのだけれど、月2、3回の頻度で映画館に足を運んでいる映画ファンの一人として言わせてもらえば、「洋画離れ」とは、すなわち「ハリウッド離れ」なんじゃないかという気がしないでもない。たとえば英国の映画と比較すると、ハリウッド映画の投下金額は一桁は違うだろう。それだけの大金を投じているにも関わらず、昨今のハリウッド映画の質の低下は著しい。強欲のツケが、ここでも回ってきたということかも知れない。

でも、どうなんだろう。輸入される映画を「洋画」という括りにせず、国や地域別に見直してみたら、新しい芽を感じ取れるかも知れないね。こういう時期だからこそ、手間ひまかけて、細やかな動向をウォッチすることが必要だろうと思う。

by naomemo | 2009-06-09 07:05 | シネマパラダイス

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今年もここまで素晴らしい映画になんどか出会うことができた。もちろん、観たかったのにチャンスを逃してしまったという作品もあるが、それはそのうち名画座で観るか、WOWOWで観るか、ということになるだろう。

その一方で、前評判が高かったのに、大はずれもあった。僕が観たなかでは二本。一本は「チェ 28歳の革命」。おかげで「チェ 39歳 別れの手紙」まで観る気にはなれなかった。名前は出さないけれど、仕事とはいえベタ褒めしていた映画評論家がいた。彼の褒める映画はおそらくもう観ることはないだろう。そしてもう一本は昨日観た「レイチェルの結婚」。

映画ファンが映画を批判するのは御法度なんだけど、今回は、赦して。はっきり言って、どちらも作品全体としては評価に値しないと思う。ただし、「レイチェルの結婚」の方は、それなりに見どころはあった。薬物依存の妹キムが、姉レイチェルの結婚式を控えて更生施設から仮退院してきた姿を追うドキュメンタリータッチのカメラワークはキムの不安定な状態をよく表現していたし、薬物依存から立ち直ろうとするキムを演じるアン・ハサウェイは魅力的だったし、家族の光の部分を受け持つ姉と陰の部分を受け持つ妹の「運命的な対比」も辛いけど見事だったし、結婚式の前々日に両家の親族が集まって催された内輪のプレ・パーティの演出も面白かった。

そこまでは、良かったのだ。ところが物語は不思議な展開を始めてしまう。そこから時間が経過し、場面も翌日に移動し、また揉め事があり、過去の事件が紹介され、姉の嫉妬と空虚が描かれ、親子のいさかいがあり、インド式の結婚式となるのだが、それがまたじつにだらだら延々と続くのだ。多国籍の音楽を聴く楽しみがあるとはいうものの、観客は、いや少なくとも私は、「いったいどこへ連れて行くつもりなんだろう?」という疑問から逃れられなくなった。

映画を観て一日経って、脚本の構成に原因があるのだなと思い当たった。人はそれぞれ描けているし、センスも申し分ないように思えるし、役者も揃っているのに、あれも言いたい、これも言いたいという気持ちが強すぎて、あるいは感情移入が行き過ぎて、脚本も演出も「観る側の目」を見失ってしまったのかも知れない。その結果、ひょっとしたら素晴らしい作品に仕上げられたかも知れないのに、「いったい何がいいたいの?」と思われるような、奇妙な駄作になってしまった。もし、映画の舞台が、あのプレ・パーティから離れなかったら、おそらく別の展開があっただろうと思う。

監督は「フィラデルフィア」「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミ。脚本は、あとで知ったのだが、「12人の怒れる男」「その土曜日、7時58分」の監督シドニー・ルメットの娘、ジェニー・ルメット。彼女にとって初脚本らしいから、じつにもったいないことをしたと思う。

編集し直したら、秀作になるんじゃないか、と思ったりする。



by naomemo | 2009-06-07 21:30 | シネマパラダイス