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食わず嫌いがあってもいいんじゃないか。これまでそう思ってたんだけど、ちょいと気分が変わってきた。先日、談志の「芝浜」をはじめて聴いた。といって、彼のダミ声が好きになったからでも、あの傍若無人な振る舞いが好ましく思えて来たからでもない。晩年の志ん朝をして、「二人会をやるとしたら談志兄さんかな」などと言わしめていた男の噺を一度も聴かないってのも、志ん朝ファンとしてどうなのかなと思うようになったからである。

談志の「芝浜」には、録音がふたつある(いや、もっとあるかも知れないけれど)。今回、若い頃の録音と、年齢を重ねてからの録音、その両方を聴いてみた。正直、驚いた。両者の間には、おそらく20年から30年の隔たりはあろうかと思われるけれど、それにしても年齢を経て、これほどまで変わるものなのかと。飽くことなくリアリティを追い求めてきた成果なんだろうな。

噺家によって細部は異なるけれど、ストーリーの冒頭はおおむねこんなところか。もともと腕のいい魚屋の亭主が、寒い冬の訪れとともに、いつのまにか酒びたりになって仕事をさぼるようになる。時節は、旧暦の年の瀬。いまでいえば2月初旬から中旬ゆえ、一年でいちばん寒い時期だ。魚河岸へ仕入れに出かける時間帯は、日の出前の4時頃かな、5時頃かな。どちらにしても、まことに寒かったろう。そこで、ついつい魚河岸の食堂で酒の力を借りる。最初は一杯で済んだところが、次第に2杯、3杯となり、日に日にだらしなくなる。あげくに仕事をさぼるようになるという寸法。

聴いている方は、頭の片隅でそんな急に仕事をさぼるようになるものかなと訝しい気分もあるんだけれど、ここのところを無類の酒好きだった志ん朝は、自分のことを引き合いに出しながら、あくまでもお酒のせいにして、深入りし過ぎることなく、さりげなく運んで行く。人生、魔がさすことってあるんだよ、という程度にね。こちらも、うん、分かったと。

ところが、談志は、そこのところを曖昧にしない。ずっと気になっていたようで、伝え聞くところによれば、ある年の真冬の高座では、扉をすべて開け放って演じたことがあるらしい。演じる方も寒い。もちろん聴く方も寒いよ。酒に行くのもムリないやね、と。やることが徹底している。そして今回聴いた後年の録音では、魚屋の亭主をもともと酒びたりの乱暴者として描いている。つまり、けして「魔がさす」みたいな解釈には至らない。とにかく、とことんリアリティを追求しているのだ。すべてに因果があるという立ち位置とでも言おうか。彼自身の中にある「どーしよーもない」部分を大きく引き延ばして投影しているような感じにも思えてくる。その迫力が凄い。そこのところが、談志ファンには堪らないんだろうねえ、きっと。

でも、談志を聴いたおかげで、なんだか、あらためて志ん朝が好きになってしまったんだよね。談志が考えているように、古典落語をいまの時代に演じて生命を吹き込むためには、たしかにリアリティの出し方に工夫がいるのだろう。けれど、こちらは、なにも、リアリティだけを求めて落語を聴いてるわけじゃないんだもん。ありそうでなさそう、なさそでありそうな、虚々実々を味わうところ、奥行きの深さみたいなものも、落語を聴く楽しみでもあるんだから。ま、でも、談志の解釈はたしかに一聴に値するし、志ん朝と聴き比べると面白いことは間違いない。

なお、「芝浜」の噺は、その後こんな感じに展開していく。

酒に溺れて日に日にだらしなくなっていく亭主に堪え難くなった妻が、ある年の瀬の早朝、揺り起こして芝の魚河岸へなんとか送り出す。ところが一刻も早く起き出したせいで、まだ魚河岸は開いていない。仕方なく浜へ出かけて煙管を吹かしているうち、ようやく夜が白み始める。酔い覚ましに海水で顔を洗っている時に、大量のお金が入った皮の財布(革袋)を拾うことになる。

大金を手に顛末を話す亭主と、それに調子を合わせる妻。しかし何を思ったのか、妻は、亭主をなだめてお酒を飲ませて床につかせてしまうのだ。やがて目を覚ました亭主、意気揚々と風呂屋へ行き、帰りに横町の連中を引き連れて帰り大盤振る舞い。

翌朝、妻は、やはり亭主を揺り起こす。目覚めた亭主、大金があるから働かないと言い出す始末。当然だろう。でもテキもさるもの、大金ってなんのこと?財布ってなんのこと?と突っぱねる。財布は悪い夢、大盤振る舞いは現実だ、と。さすがに困り果てた亭主、改心し、酒をきっぱりと断ち、腕のいい働き者の魚屋に戻る。いつしか具合の悪い借金はすべて返済し、蓄えまで出来た3年後の大晦日。畳替えをして、夫が風呂から戻るのを待って、妻は意を決して当時の顛末を話し始める…。ほろりとさせてくれる、江戸の人情噺です。

by naomemo | 2010-02-24 08:19 | 音楽から落語まで

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今朝は散歩を控えようかと思ったが、窓を開けてみると小雨である。帽子を冠って歩けないことはない。ちょいと迷ったが、すぐにそそくさと用意をして、念のため傘を持って出かけた。それにしても、このところ雨が多い。7月初旬に梅雨明け宣言が出た時に、ちと早いんじゃないかと思ったけど、案の定、月末が近づいて梅雨の戻りと相成った。今年は冷夏になるのかも知れないな。

さて、土用入りして十日目である。例年なら、いまごろ「あぢぢー」なんて言いながら騒いでる頃である。となれば、やっぱり「鰻の幇間」を、志ん朝で聴いておかなくちゃ。こいつを聴くには、ちと暑さ不足ではあるんだけど、ま、天候ばかりは仕方なし。

以前、桂文楽の「鰻の幇間」を、「どことなく哀愁がただよう噺に仕上がっている」と評して紹介した。でも、文楽の芸をしっかり受け継いでいると思われる志ん朝の「鰻の幇間」からは、あまり「哀愁」を感じることがない。なんとなく文楽が表現した「哀愁」を、意図的に退けているように感じる。主人公の野だいこ一八を厳しく突き放しているようにさえ聞こえる。どうしてなのかなあと前から気になっていた。

文楽の生前には健在であったであろう幇間も、志ん朝の時代にはすでに絶滅危惧種と化している。だから、お客さんが幇間の存在を知らないことを前提に、幇間について、そしてその成れの果てとしての野だいこについて、用意周到なまくらを展開している。

桜川忠七という幇間の名人の言葉として、客ってえのは自慢話をしたがるものだから、その話をとても興味を持って聞いてやる、自分からしゃべらないで、相手の話を聴いてやるのが大切なんだと伝えている。ところが、本編の主人公の野だいこ一八は、じつによくしゃべる男なのである。相手の旦那にほとんどしゃべる暇を与えないくらい、よくしゃべる。

旦那が、一八に向かって、「いい下駄はいてるねえ」と褒めるシーンが序盤に登場する。そこで一八は、「旦那、あたしたちがやるようなことしちゃあいけません」と応じている。さらに、うなぎやの二階座敷で、旦那は一八を上座に座らせようとしているのだ。うっかりなのか、探りを入れているのかは不明だけれど。

しかし、ここまで来れば、この旦那が「旦那」でないことは明らかだろう。一八よりも一枚も二枚も上手の、すれっからしの同業に違いあるまい。それにひき比べ、一八の、なんともお人好しなこと。そこがまた堪らなくいいんだけどねえ。

ちなみに、志ん朝は、二十代の頃に、守り本尊の虚空蔵菩薩のお使いが鰻であると聞き及び、以来、六十三歳で亡くなる晩年まで、大好物の「鰻」を断ったという。この鰻屋の二階で、「噛みごたえのある」鰻を食べている志ん朝の演技の、なんと素晴らしいことか。「鰻の幇間」は、かなり思い入れのあるネタだったのではないかと勝手に思っている。

by naomemo | 2009-07-29 12:30 | 音楽から落語まで

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落語で昭和の三大名人といえば、古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭円生ということになっている。その後、四天王と呼ばれたのが、古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭円楽、春風亭柳朝(あるいは橘屋円蔵)である。なかでも志ん朝と談志は、群を抜いていたこともあって、比較されることが多い。

また、談志ファンは志ん朝も好むが、志ん朝ファンは談志を好まないとも言われている。統計的にどうなのか知らないが、僕自身も志ん朝ファンで、これまで談志は積極的には聴いていない。

なぜか。たとえば、落語のどこが好きかという質問に対する二人の答えを聞けば、その違いは明瞭だと思う。志ん朝には「狐や狸が出てくるところ」と答えて憚らない洒脱さがある。理屈は言わない。すべては高座に表れるとする潔さがあるように感じる。一方の談志は「人間の業を肯定しているところ」と答えるデモーニッシュな理論派である。落語にテーマ性を持ち込んだ、革命児としての顔がある。かたや粋、かたや無骨といっても良いだろう。ようするに落語に対する考え方、姿勢、態度がまるきり違うのだ。

そんなことから、古くからの落語ファンが「談志の迷宮 志ん朝の闇」というタイトルを見たら、こうした事情を思い浮かべながら、この本を手に取るに違いない。しかし、そうなると、おそらく期待外れになるだろう。この本は、談志と志ん朝の違いを深く掘り下げているわけではないからだ。本人が付けたのか、版元が付けたのか知らないが、ひょっとしたら、このタイトルがマイナスになって、評価を下げているかも知れない。

でも、あくまでも落語ネタのエッセイ集、あるいは「落語が僕の先生だった」といった趣きのエッセイ集と思って読めば、それはそれで十分に楽しめる一冊ではある。若い頃から、落語が著者の生活の一部としてあったらしいことも伝わってくるし、著者の落語に対する愛情は本物だろうとも感じるからね。こういう入門書があってもいいんじゃないかとも思う。僕はこの本を読んで、そろそろ談志を聴いてみようかなと思い始めている。

取り上げられている落語ネタは次の通り。文七元結、富久、笠碁、付き馬、試し酒、鰻の幇間、雑俳、明烏、黄金餅、垂乳根、宮戸川、化物使い、馬のす、火事息子、芝浜。

著者は、立川末広。この人、並外れた競馬好きのようでもあります。

by naomemo | 2009-06-24 07:05 | 音楽から落語まで

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半年前まで、世界に冠たる超優良企業と言われていた大手企業が、この時期になって軒並み人員削減に動いている。さすがに心中穏やかではいられない。国際展開が進んでいる企業ほど、海外需要の後退と円独歩高のダブル効果で厳しいのは、皮肉なことだと思う。それほどに厳しい状況とはいえ、この寒い年末になって、いきなり仕事と住まいの両方を奪う結果になってしまうのは辛いことではあろう。さらに、下請け、孫請けという構造に人材派遣がからんで、問題がより複雑になっているようでもある。しかし、それでもなお、もちっとましな対応が出来ないものだろうかと思う。

さて、そんなことを思いつつ、志ん朝の火炎太鼓を聞き始め、マクラを楽しんでいるうちに、いつのまにか江戸時代にワープして、気持ちがホクホクと温もってきた。

世の亭主ってのは、古女房に、ほんと、頭が上がらないんだねえ。なによりもまず口数からして亭主は気持ちよく負けてます。喋っているうちに、あれれ、いつのまにか旗色が悪くなっているのだ。偉そうに見える亭主ほど、じつは内心、古女房が一番怖いのだねえ。というか古女房に弱いんだねえ。

「火焔太鼓」の主人公は、古道具屋の主人甚兵衛さん。毎度毎度、二足三文の品ばかり仕入れきては損ばかりしてるだの、客あしらいからしてなってないだの、小言ばかり言われている。もう、さんざんである。ところが、そんなお人好しで商売下手な甚兵衛さんにも僥倖は訪れる。たまたま仕入れて来たホコリを被った年代ものの太鼓の掃除を、下働きの甥の定吉に頼んだところ、掃除をよそに、ドンドンドドドン、ドドドンドーン…と太鼓を叩いて遊んでいる。そこへたまたま通りかかった殿様の耳に止り、のちほど屋敷に呼ばれて、世に二つとない太鼓だと知らされ、三百金で買い上げられることになる。あとでその話を亭主から聞いた古女房の喜びようったらないのだ。だって、一分二朱で仕入れた太鼓が三百金で売れるなんて、富くじに当たったようなものだもの。

ほんと、どうってこともない噺。でも、亭主と古女房、亭主と殿様の使いとの間で交わされるやりとりが、なんともばかばかしく、目出たく、愉快なのだ。そして、悪意のない庶民の頭上にこそ僥倖は訪れるのが古典落語の文法なんだよと、志ん朝はそれとなく私たちに気づかせてくれているようにも思えてくるのだ。じつに温かい気分になれる、この年末、おすすめの一席であります。

ちなみに、この録音は1999年。物故される2年前。声にも話し方にも年季が入っています。

by naomemo | 2008-12-17 07:00 | 音楽から落語まで

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日々、禁煙が楽になってくる。いやいや、ほんと。あー、タ、タ、タバコ、なんて気持ちに襲われたのも先週末の2日間だけ。もうほとんど大丈夫みたい。とはいえ、まだ1ヶ月も経っていない。気を抜かないようにしないとね。

朝、混雑した電車に乗ってからイヤホンを耳に入れ、手探りで胸ポケットのiPodの電源を入れ、志ん朝の出囃子を探り当てる。あれれ、志ん朝が風邪の話なんかしてるよ、マクラでウィルスがどうのこうのって、志ん朝らしくないよなあ、そういえば以前もそんな感じを、この噺なんだったけかなあ、じれったいよなあ、あー、そうか、「羽織の遊び」だったかと思い当たった。 

それにしても、ほんと、じれったいんだよなあ、この噺。端っから、どっかの若旦那をたらしこんでナカ(吉原)へ繰り出そうって話になってるのに、そしてもちろん手頃な獲物まで登場させてナシ付けてるってえのに、ちっともナカへ向かえないのだ。行きたくて、行きたくて、行きたくて仕方ないのに、若旦那から言われた「羽織」が手に入らないおかげで、ちっとも行けないという物語なのだ。気持ちは前のめりになってるのに、身体が前に進んでいかないとでもいえばいいのだろうか。

今回久しぶりに聞き直して、やっぱり、じれったい。そう思いながら聞いていたが、聞き終えてから、でも、あー、うーん、そーね、このじれったさ、悪くねえかも、って思えてきた。ほんとかな?もう一回、聞き直してみた。この若いの、ほんと、じれったい。ニブイんだよなあ。だから、じつにじれったい。でも、志ん朝も、そのじれったいのを楽しんでるように聞こえて来る。だから聞く方も楽しんじゃえばいいんだよな。

by naomemo | 2008-12-05 07:45 | 音楽から落語まで

禁煙23日目 三軒長屋

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喫煙している頃にはあまり感じなかったが、電車のなかって化粧品のニオイがけっこう充満しているんだよねえ。とくに朝だね。これまで気にならなかったのは、やっぱり臭覚が鈍くなっていたってことだね。禁煙するだけで、思わぬ発見があるもんだ。

今朝は、電車のなかで、志ん朝の「三軒長屋」を聞きながら仕事場に向かう。質屋(金貸し)の主人を、鳶頭の政五郎がちょいと智恵を働かせてやりこめるという、お馴染みの痛快噺。噺というより、お芝居。志ん朝の声を聞きながら目を瞑ると、もうそこは江戸時代の賑やかな三軒長屋。あっというまに時空を飛び越えてワープできてしまうのは、志ん朝の芸というほかないね。

by naomemo | 2008-12-03 13:00 | 音楽から落語まで


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一昨日、昨日と、ひさびさに「タ、タ、タバコ、吸いたい」という気分に襲われた。なにかキッカケがあったのかなあ…、思い当たることと言えば、金曜日に観た映画(「その土曜日、7時58分」)くらいである。表現にチカラがあった分だけ、暗澹たる物語が堪えてしまった。それでストーンと落ちた休日の2日間、ジムやテニスコートでたっぷり汗を流して、なんとかやり過ごし、ようやく浮上してきた感じ。

本来なら今はまだニコパッチを貼っているはずの時期だから、「お、おぬし、き、きたなあ」と感じたら、無理せずに貼れば楽になるのは分かっていたのだが、ここはあえて我慢してみたのだ。休日だったから、なおさらだね。でも、終わりよければ、すべてよし。禁煙、じつに21日目に突入したのであった。とにかく1本吸うだけで中毒症状が復活してしまうらしいので、このまま行くのだ。

そんなこともあってか、昨日あたりから志ん朝の落語が聞きたくなり、音源をiPodに移す。まずは「百川(ももかわ)」。田舎出の百兵衛さんと江戸の魚河岸の兄さんたちとの掛け合い、というか擦れ違いは、なんど聞いても笑っちゃうねえ。

今朝は電車の中で「今戸の狐」。この噺、いろいろなバージョンがあるらしいが、他にどんなのがあるんだろう。志ん朝バージョンでは、マクラでさんざん符丁のことが紹介された上で噺が展開する。どうってこともない噺のようではあるが、きっと志ん朝好みなんだろうな。とにかくカタチがきれい。前座が主人公というのも珍しい。

ところで、この噺のなかに、狐の彩色の内職を手伝いたいと頼んで来る、近所で働き者と評判の女性が登場する。コツ(千住)出身の女郎上がりだという。今戸の狐って、江戸時代の庶民の間で招き猫のような縁起物として人気があったのかもな。

by naomemo | 2008-12-01 13:30 | 音楽から落語まで