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半年前まで、世界に冠たる超優良企業と言われていた大手企業が、この時期になって軒並み人員削減に動いている。さすがに心中穏やかではいられない。国際展開が進んでいる企業ほど、海外需要の後退と円独歩高のダブル効果で厳しいのは、皮肉なことだと思う。それほどに厳しい状況とはいえ、この寒い年末になって、いきなり仕事と住まいの両方を奪う結果になってしまうのは辛いことではあろう。さらに、下請け、孫請けという構造に人材派遣がからんで、問題がより複雑になっているようでもある。しかし、それでもなお、もちっとましな対応が出来ないものだろうかと思う。

さて、そんなことを思いつつ、志ん朝の火炎太鼓を聞き始め、マクラを楽しんでいるうちに、いつのまにか江戸時代にワープして、気持ちがホクホクと温もってきた。

世の亭主ってのは、古女房に、ほんと、頭が上がらないんだねえ。なによりもまず口数からして亭主は気持ちよく負けてます。喋っているうちに、あれれ、いつのまにか旗色が悪くなっているのだ。偉そうに見える亭主ほど、じつは内心、古女房が一番怖いのだねえ。というか古女房に弱いんだねえ。

「火焔太鼓」の主人公は、古道具屋の主人甚兵衛さん。毎度毎度、二足三文の品ばかり仕入れきては損ばかりしてるだの、客あしらいからしてなってないだの、小言ばかり言われている。もう、さんざんである。ところが、そんなお人好しで商売下手な甚兵衛さんにも僥倖は訪れる。たまたま仕入れて来たホコリを被った年代ものの太鼓の掃除を、下働きの甥の定吉に頼んだところ、掃除をよそに、ドンドンドドドン、ドドドンドーン…と太鼓を叩いて遊んでいる。そこへたまたま通りかかった殿様の耳に止り、のちほど屋敷に呼ばれて、世に二つとない太鼓だと知らされ、三百金で買い上げられることになる。あとでその話を亭主から聞いた古女房の喜びようったらないのだ。だって、一分二朱で仕入れた太鼓が三百金で売れるなんて、富くじに当たったようなものだもの。

ほんと、どうってこともない噺。でも、亭主と古女房、亭主と殿様の使いとの間で交わされるやりとりが、なんともばかばかしく、目出たく、愉快なのだ。そして、悪意のない庶民の頭上にこそ僥倖は訪れるのが古典落語の文法なんだよと、志ん朝はそれとなく私たちに気づかせてくれているようにも思えてくるのだ。じつに温かい気分になれる、この年末、おすすめの一席であります。

ちなみに、この録音は1999年。物故される2年前。声にも話し方にも年季が入っています。

# by naomemo | 2008-12-17 07:00 | 音楽から落語まで


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禁煙もついに36日目に突入。咳も減ったし、咳払いもほとんど出なくなった。よくぞここまでアルコールの場でも我慢してきたものだと思う。何度も自分を誉めてあげようと思う。

さて、一昨日から「強欲資本主義 ウォール街の自爆」(文春新書)を読み始めたのだが、なにやらモヤモヤするものがあった。強欲資本主義って何かに似てるなあ…、なんだろうなあ…。あー、そうか、ナイルパーチか、と思い当たった。「ダーウィンの悪夢」というドキュメンタリーフィルムの記憶が泡立っていたのだった。

舞台はアフリカ中東部にあるヴィクトリア湖とその周辺。この湖は、琵琶湖の100倍の広さを有しているそうだが、その昔、「ダーウィンの箱庭」と呼ばれたほど、多様性の宝庫であったらしい。

ところが半世紀ほど前に、ちょっとした悪戯なのか実験なのか食用目的なのか知らないけれど、そのヴィクトリア湖に全長2メートルを越すナイルパーチという肉食魚が放たれた。平和な湖に、悪食の異分子が放り込まれたわけだ。ナイルパーチは繁殖力が強く、つぎつぎと他の魚たちを喰い散らかしていった。その結果、生命循環の糸が断たれ、いまや多様性が瀕死の状態となっているという。いうまでもなく湖の環境汚染も歯止めなく進んでいる。つまり「ダーウィンの知らない悪夢」が展開しているというわけだ。

このナイルパーチは、スズキに似た白身の魚で、EUや日本での需要が多いらしい。巨額の資本が湖畔に投下され、周辺の人口密度は急激に膨張し、空港が作られ、魚の加工工場は繁盛する。空港周辺には、パイロット目当ての売春婦も登場する。フィルム映像で観る彼女たちの汚れた姿は、じつに痛々しい。

文明というか経済の発展プロセスをすっとばして、いきなり工場が出来て、さまざまな仕事がそこここに発生する。加工工場から出る廃棄物(魚の頭や骨や尾など)で、土地も汚されていく。それでも昔よりマシという現地の人々の言葉は印象的だ。

ちなみに、ファミレスなどでメニューに「白身のムニエル」などと表示されている白身の魚は、このナイルパーチだという説もある。ひょっとすると、コンビニのお弁当などに使われている白身には、この類いが混じっていないとも限らない。映像で観るかぎり、加工工場の処理現場や周辺は、お世辞にもけっして衛生的とは言い難いのだが…。

悪食の肉食魚ナイルパーチと金融資本主義の強欲ウィルス。偶然なんだけど、じつによく似ていると思うね。

# by naomemo | 2008-12-16 07:30

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一昨日、仕事を終えてから、映画会社勤務のYくんの案内で、西新宿の釜焼鳥本舗へ行ってきた。アドマチックで紹介していたらしく予約で満席。断られた。でも、30分でいいからとお願いしたら、立ち飲みでもよければって、わざわざスペースを作ってくれた。ビール飲みながら、焼き鳥をばくばく食って、最後に讃岐うどんで締めた。それにしても、Yくんがあれほどヘビースモーカーだったとは。若葉マークのノンスモーカーは、じっと堪えていました。

これで終わりたいところだけど、帰りの電車のなかでメモしたこともあるので、まとめておこうと思います。前回、英国のパブ全面禁煙化に触れ、そんな英国の変質はヤだねえと書いたが、その続き。

この夏、「この自由な世界で」という映画を観た。主人公は、格差が進む英国社会のなかで、必死に這い上がろうとするワーカークラスのシングルマザー。彼女は、やがて、東欧や中東からの不法移民へ労働を斡旋する派遣事業に乗り出す。生活のため、家族のためなら、何をしても自由じゃないかと考えるこの娘の生き方に対し、いやそれは違うぞと語りかける父親の存在がとても痛い。こうした世代間の葛藤は、先進諸国ではおなじみの風景かも知れない。

でも、この映画は、シングルマザーの必死や家族の葛藤だけを描いているわけではない。このシングルマザーは「規制緩和=自由化」の落し子なんだね。というか、そういう役割を担って登場している。そして彼女の父親は、その前の世代の代表として位置づけられている。ここで扱われている移民の問題も、そうした文脈のなかで浮き彫りにされている。脚本はポール・ラヴァティ、監督はケン・ローチ、「麦の穂を揺らす風」のコンビです。

映画から離れよう。英国は、1980年代にサッチャー首相の元で市場原理を導入してシティを解放、国家戦略として金融と不動産に産業を特化してきた。キーワードは、さきほど挙げた「規制緩和=自由化」。落日にあった英国は不死鳥のように蘇り、金融経済は飛躍的に発展。やがてバブルに向かってばく進することになる。

米国も同様。「規制緩和=自由化」が行き着くところまで行って、金融と住宅バブルの破綻が起きた。四半世紀かけて膨らみ切った大きな風船に穴が開いた。シューと空気がもれていくに連れて、社会や経済にとってもっとも大切な「信任」や「信頼」が壊れつつある。いま世界中で、金貨や金地金が買われているのは、まさに通貨への信任そのものが急速に失われつつある証だろうね。これは怖いことだ。

「規制緩和=自由化」というのは、よく考えてみれば性善説にもとづいているものだね。でも、今回の金融危機を通して、人間ってのは野放しにすると何をしでかすか分からないし、強欲というウィルスはきわめて伝染性が強いことも分かってきた。これから先、振り子は性善説から性悪説へ、規制緩和から規制強化へ向かっていかざるを得ないのだろうね。規制強化と景気後退が同時に進むなんて、かなりきついことかも知れませんが、仕方なし。

こうしてみると、英国のパブ全面禁煙というのも、規制強化の流れの最初の兆候と言えるのかも知れないな。

# by naomemo | 2008-12-14 17:00


タバコ止めたんだよね、と言ってみる。相手がスモーカーであろうとなかろうと、その言葉に対して、なぜ?って疑問を返してくる人はいない。こんな旨いもん、なぜやめちゃうだい?と突っ込んでくるスモーカーが一人や二人いても、ぜんぜん不思議じゃないと思うんだけど、そうはならない。スモーカーもノンスモーカーも、喫煙=害毒という等式にしっかりバインドされているんだね。いけないね、こういう流れは。

私は、タバコを、止めた。でも、吸いたい人は吸えばよろし、と思っている。ただ、スモーカは臭覚が鈍くなっているから自覚しにくいだろうが、一度体内に取り込まれてから吐き出されるタバコのニオイは、ノンスモーカーにはしんどい。とくに、私のような若葉マークのノンスモーカーにはね。だからスモーカーには、周囲に迷惑のかからない場所で、好きなだけ吸いなはれ、と言いたい。

英国ではパブが全面禁煙になっていると聞く。英国のパブといえば、常温のぬるいビール、スコッチ、タバコ、ダーツが4点セットだと認識していたが、その一角が崩れたということで残念である。それで経営が立ち行かなくなってきたところも多いと聞く。なぜそこまで政府が関与するんだろうか?英国らしくないと思う。そんなことは、個別の店のオーナーが決めればいいことじゃないか?喫煙できる店、出来ない店、両立してる方が健全だし、どっちの店に入るかは客が決めればいい。どうも、高齢化に伴う公的な医療費支出増大を抑制すべく、タバコを犠牲の羊にしてるんじゃないかと勘ぐりたくなる。こういう英国の変質は、なんだか気になるね。

最近、我が家のある神奈川県でも、人が集まる場所を法律で全面禁煙にしようという動きが出て来ている。公共施設を禁煙にすることには、まあ賛成だが、巷のバーにいたるまで全面禁煙にしてどうするんだ?愛煙家が集まるバーがあったって、いいじゃないか。ノンスモーカーは入らなければいいだけのこと。禁煙を続け、タバコを完全に止めようと思っている私ではあるが、法律で個人経営の店まで全面禁煙にすることには断じて反対である。それは筋違いというものである。子供じみた真似はやめてほしいものです。

# by naomemo | 2008-12-11 23:30


つ、つ、ついに、禁煙30日目。先月11日から始めたから、今日でちょうどひと月になるのだ。じつに素晴らしい。自分で自分を誉めてあげたい。よし、よし、よく頑張ったぞ。

じつは、これまで何回か禁煙にチャレンジしてきたのだが、たまの1本くらい大丈夫でしょうという緩い気持ちだったことが禍いして、いつのまにか喫煙生活に戻ってしまっていたのだった。しかし、これまで何度も書いているように、そして、これは誰が考えても当たり前のことなのだが、その1本さえ手にしなければ、続けようという意思さえあれば、禁煙は簡単に続けられるのだ。ま、簡単にとは言っても、最初の数週間は、ニコチンパッチの援助があったから無難にこなせたんだけどね。ニコチンパッチがなければ、おそらく到底ここまで来れなかっただろう。

ところで、今日のタイトルだが、最初に使ったのはマラソンランナーの有森裕子さんだった。いや、ひょっとしたら違うかも知れない。言い直そう。初めてこの言葉を耳にしたのは12年前。92年のバルセロナ五輪での銀メダルに続き、96年のアトランタ五輪でも銅メダルを獲得した有森裕子さんが、そのレース直後のインタビューで、はじめて自分で自分を誉めたいと思います、と言い放ったのだ。

えっ?と、一瞬、耳を疑った。その音は三半規管のアチコチにぶつかって、妙な違和感を残した。なんだかヘンな言い方をする人だなあと思った。少し大袈裟な言い方かも知れないが、自分で自分を誉めるなんて発想は、それまでの日本語にはなかったのではなかろうか。それほどのカルチャーショックだった。

にもかかわらず、有森裕子さんから発せられたこの言葉は、多くのひとに受け入れられ、すばやく吸収消化された、ようだ。その証拠にその年の流行語大賞に輝いてもいる。それだけのインパクトがあったということだし、それはなにより有森裕子さんの努力と活躍がベースにあった。でも、ほんとはどうなんだろう。いつまでも訝しく思う自分がいた。それほどすばやく吸収されるような類いの言葉だったんだろうか、それは。

# by naomemo | 2008-12-10 22:30