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昨晩、最寄り駅から自宅に向かって歩いていたら、なんだか目がショボショボしてきた。終日原稿を書いてたので、目が疲れたんだな、きっと…。

でも、ちがった。今朝になっても、ショボ目が続いてた。そーか、花粉なのかあ。ようやく気がついた。ニュースでも花粉情報を聞いてるのに、なんて鈍いんだろうねえ。やんなっちゃう。

仕事場の引き出しのなかを調べてみた。昨年二本目に買った鼻薬は半分くらい残ってた。でも、眼薬が見当たらない。おやー。まだ半分くらいしか使ってなかったのにあ…。鼻には来てないのに鼻薬はある。目には来てるのに眼薬はない。

今晩、自宅の机を調べてみて、なかったら買わなくちゃ。ひと春で使い切らないから、もったいないんだけどなあ。でも、しかたないか。

こうして、あちきにも花粉の季節は到来したのでした。

そうそう、ぜんぜん関係ないけど、近くの公園で、菜の花がきれいに咲いていました。

by naomemo | 2010-02-26 12:52


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昨今の欧州では、スレンダーより太めがいいんだとか。へー、そーなのかーと思ったけど、深く考えることもなく、そのまま忘れるに任せていた。去年のことだ。

でも、昨日、「タバコをやめて4ヶ月。すごく体調がいいんだけど、4キロも太ってしまって、困ってる」という知り合いからのメールを読んでたら、この欧州の話が、ふっと蘇ってきた。

どうやら欧州では摂食障害撲滅キャンペーンってのが動いているらしい。これまでスレンダーを推奨してきた流れを変えることで、摂食障害の一因とみられる「痩せなくちゃ」というストレスを取り除いていこう、ということなんだろう。

スレンダーになりたいという願望から喫煙に走ってきた女性も多かったのかも知れない。そういう意味では喫煙習慣を断ち切ることで少しばかり太っても、気持ち的にはラクかもね。そう、その自然な姿がいいんだよ、って言ってあげることは大切なことだし。痩せてる人がいたり、太ってる人がいたりするからいいんで、みんな痩せてたり太ってたりしたら、気持ち悪いし。

ただ気になるのは、この摂食障害撲滅キャンペーンと喫煙撲滅キャンペーンが相互にリンクしている感じもある。すでに喫煙撲滅キャンペーンのあおりを喰って、ロンドンであちこちのパブが潰れてるとか、ウィーンで店仕舞いを余儀なくされる老舗のカフェがあるとも聞く。そうなると、これはもう魔女狩りに近い。喫煙か、禁煙か、それはお店単位で決めさせればいいよね。けっきょくのところ、どの店に入るかなんてことは、客が決めるわけだから。

自由化も行き過ぎると深刻な問題を起こすけれど、規制強化も行き過ぎると社会から生気が失われる。ギスギスして困るよね。でも、世界は規制緩和から規制強化へ動き始めたばかりだから、振り子がほどよい所に戻ってくるまで相当の時間がかかりそう。世の中、ほどほどってところには、なかなか収まらないね。

なんだか今日も長マクラになってしまったけど、今週の一枚。「スレンダーより太めがいい」というトレンドがあることを最初に知ったのは、ここに紹介するアデルを知った頃だったのだ。最初に彼女をブラウン管を通して見た時、たしかに太めだねえ、でも、可愛いじゃん、って思ったのだった。

彼女は、この19歳のデビュー盤で、一気にスターダムへ。とってもいい雰囲気を持ってる。好みのナチュラルなハスキー・ヴォイスでもあるし、なかなか心地よいアルバムです。

by naomemo | 2010-02-26 08:38 | 音楽から落語まで

青木功 = 素っ裸の魅力


日経朝刊終面の人気コーナー「私の履歴書」に、プロゴルファーの青木功が登場している。とても面白いので、久々に毎朝欠かさず読んでいる。

若い頃から現在に至るまで、節目、節目にいい出会いがあったようだけど、その出会いは、彼の持つ真っ正直で、天衣無縫な性格があったればこそだろうと思えてくる。

それにしても、こんなにも裏表なく、素っ裸になれるものなんだろうか。たいていの人間は、年齢とともに、いろいろ着飾ったりするものだけど、彼はそうなってない。「世界の青木」になってから、素っ裸に、ますます磨きがかかっているようにさえ見えてくる。そこがまたいい。

「怖いもの知らず」、いやいや、「怖いものなし」の境地なんだろうね。なんだか、うらやましくなってきたなあ。

by naomemo | 2010-02-25 08:43

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食わず嫌いがあってもいいんじゃないか。これまでそう思ってたんだけど、ちょいと気分が変わってきた。先日、談志の「芝浜」をはじめて聴いた。といって、彼のダミ声が好きになったからでも、あの傍若無人な振る舞いが好ましく思えて来たからでもない。晩年の志ん朝をして、「二人会をやるとしたら談志兄さんかな」などと言わしめていた男の噺を一度も聴かないってのも、志ん朝ファンとしてどうなのかなと思うようになったからである。

談志の「芝浜」には、録音がふたつある(いや、もっとあるかも知れないけれど)。今回、若い頃の録音と、年齢を重ねてからの録音、その両方を聴いてみた。正直、驚いた。両者の間には、おそらく20年から30年の隔たりはあろうかと思われるけれど、それにしても年齢を経て、これほどまで変わるものなのかと。飽くことなくリアリティを追い求めてきた成果なんだろうな。

噺家によって細部は異なるけれど、ストーリーの冒頭はおおむねこんなところか。もともと腕のいい魚屋の亭主が、寒い冬の訪れとともに、いつのまにか酒びたりになって仕事をさぼるようになる。時節は、旧暦の年の瀬。いまでいえば2月初旬から中旬ゆえ、一年でいちばん寒い時期だ。魚河岸へ仕入れに出かける時間帯は、日の出前の4時頃かな、5時頃かな。どちらにしても、まことに寒かったろう。そこで、ついつい魚河岸の食堂で酒の力を借りる。最初は一杯で済んだところが、次第に2杯、3杯となり、日に日にだらしなくなる。あげくに仕事をさぼるようになるという寸法。

聴いている方は、頭の片隅でそんな急に仕事をさぼるようになるものかなと訝しい気分もあるんだけれど、ここのところを無類の酒好きだった志ん朝は、自分のことを引き合いに出しながら、あくまでもお酒のせいにして、深入りし過ぎることなく、さりげなく運んで行く。人生、魔がさすことってあるんだよ、という程度にね。こちらも、うん、分かったと。

ところが、談志は、そこのところを曖昧にしない。ずっと気になっていたようで、伝え聞くところによれば、ある年の真冬の高座では、扉をすべて開け放って演じたことがあるらしい。演じる方も寒い。もちろん聴く方も寒いよ。酒に行くのもムリないやね、と。やることが徹底している。そして今回聴いた後年の録音では、魚屋の亭主をもともと酒びたりの乱暴者として描いている。つまり、けして「魔がさす」みたいな解釈には至らない。とにかく、とことんリアリティを追求しているのだ。すべてに因果があるという立ち位置とでも言おうか。彼自身の中にある「どーしよーもない」部分を大きく引き延ばして投影しているような感じにも思えてくる。その迫力が凄い。そこのところが、談志ファンには堪らないんだろうねえ、きっと。

でも、談志を聴いたおかげで、なんだか、あらためて志ん朝が好きになってしまったんだよね。談志が考えているように、古典落語をいまの時代に演じて生命を吹き込むためには、たしかにリアリティの出し方に工夫がいるのだろう。けれど、こちらは、なにも、リアリティだけを求めて落語を聴いてるわけじゃないんだもん。ありそうでなさそう、なさそでありそうな、虚々実々を味わうところ、奥行きの深さみたいなものも、落語を聴く楽しみでもあるんだから。ま、でも、談志の解釈はたしかに一聴に値するし、志ん朝と聴き比べると面白いことは間違いない。

なお、「芝浜」の噺は、その後こんな感じに展開していく。

酒に溺れて日に日にだらしなくなっていく亭主に堪え難くなった妻が、ある年の瀬の早朝、揺り起こして芝の魚河岸へなんとか送り出す。ところが一刻も早く起き出したせいで、まだ魚河岸は開いていない。仕方なく浜へ出かけて煙管を吹かしているうち、ようやく夜が白み始める。酔い覚ましに海水で顔を洗っている時に、大量のお金が入った皮の財布(革袋)を拾うことになる。

大金を手に顛末を話す亭主と、それに調子を合わせる妻。しかし何を思ったのか、妻は、亭主をなだめてお酒を飲ませて床につかせてしまうのだ。やがて目を覚ました亭主、意気揚々と風呂屋へ行き、帰りに横町の連中を引き連れて帰り大盤振る舞い。

翌朝、妻は、やはり亭主を揺り起こす。目覚めた亭主、大金があるから働かないと言い出す始末。当然だろう。でもテキもさるもの、大金ってなんのこと?財布ってなんのこと?と突っぱねる。財布は悪い夢、大盤振る舞いは現実だ、と。さすがに困り果てた亭主、改心し、酒をきっぱりと断ち、腕のいい働き者の魚屋に戻る。いつしか具合の悪い借金はすべて返済し、蓄えまで出来た3年後の大晦日。畳替えをして、夫が風呂から戻るのを待って、妻は意を決して当時の顛末を話し始める…。ほろりとさせてくれる、江戸の人情噺です。

by naomemo | 2010-02-24 08:19 | 音楽から落語まで



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中東の映画がちょっとしたマイ・ブームということもあって、このアフガニスタン出身のアティーク・ラヒーミーという亡命作家の本のことが、ちょっと前から気になっていた。「悲しみを聴く石」なんていうタイトルからして、なんだかいいじゃない。そんな折、音楽ライター飯尾さんのブログに、「戦慄」と書かれているのを読んで、ドンッと背中を押された。こういう時は、もう、読むっきゃないんだね。

前につんのめるようにして読み始めたんだけど、でも、ページを繰っていても、いっこうに物語は動き出さない。最初は情景描写が主体ということもあるのか、まるで舞台台本か映画シナリオのト書きを読んでいるような気分。だからなかなか前に進めない。

どうやら舞台は、内戦状態にあるアフガニスタンの「あるところ、ないところ」、つまり架空の場所にある家屋の室内という設定。この物語の証人ともいうべきカメラ的視点は、中庭に面した窓の反対側の壁面、斜め上あたりに固定されている。アングルが上下左右に動いたり、ズームイン、ズームアウトすることはあっても、位置そのものが大きく動くことはない。最初の1ページから最後の衝撃的な結末まで動かない。

やがて、妻=この物語の主人公が、首の後ろを撃たれて植物状態にある夫を前に、自らの秘密を話し始める。いつしか、物語の扉は、ゆっくりと開かれる。部屋全体に生命が宿る。女の呼吸が聞こえる。星々が瞬き、銃声が鳴り響く。

石のように動かない夫を前に、妻は話し始める。「だいたい、考えても見て、ずっと留守にしている夫と一年間婚約、そして三年間結婚しているなんて、簡単なことじゃないわ。あなたの名前と暮らしていたようなものよ。それまで私はあなたを見たことも、声を聞いたことも、身体に触ったこともなかった。」

「私の言いたいこと分かってくれる?結局のところ、私、この話、鶉の話ができてすっきりしたの。みんな話せたから。あなたに言えたおかげ。実際、あなたが病気になってから、私があなたに話すようになってから、あなたにいらつくようになってから、あなたに悪口を言えるようになってから、心の中にしまっておいたことをみんなあなたに話せてから、そしてあなたがそれに何も答えることができなくなってから、私に対して何もすることができなくなってから、私はずっと元気になったし、気持ちも落ち着けたって気がついたの」

「知っているかしら、その石を自分の前において、その前で、自分に起きた不幸とか、苦しみとか、つらさとか、悲惨なこととかを話すの、その石に、心にしまっていたこと、他の人には言えないことをすべて告白するの…」女は点滴を調整する。「石に話したいだけ話すと、石はその話を聞き、その人の言葉や秘密を吸いとる、ある日割れるまで。その時、その石は粉々になるの」女は男の目を拭き、湿らせる。「そしてその日には、すべての苦しみ、悲しみから解放されている…その石のこと、なんて言ったかしら」女はシーツを直す。

昨年観た中東映画「シリアの花嫁」でも「キャラメル」でも感じたことなのだが、この作品も、「男」の神を唯一絶対とする宗教世界に暮らす女の視点から書かれている。そんな桎梏から、遠くへ、遠くへ、羽ばたきたい女たちの声が、はてしなく木霊しているように感じる。

ちなみに、ここに登場する「石」とは、ペルシャの古い言い伝えにある「サンゲ・サブール」(忍耐の石)のこと。それが、この本の原題でもある。今朝、電車のなかで読み終えたのだけれど、もう一度、最初から読もうと思っている。というか、この、言葉で書かれた一編の映画を楽しもうかと。

by naomemo | 2010-02-18 08:37



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むかし、むかし、もうはるか彼方のことなんだけど、ちょっとばかりジャズを齧っていたことがあり、その頃よくジャズ喫茶にも入り浸っていた。コーヒー一杯か二杯で、3時間も4時間も居座ったりして、リクエストなんかもしたりして、店にとっては、じつに迷惑な話だったに違いない。でも、イヤな顔をされた記憶がない。鈍感だったのかも知れないけれど、きっと、いまより少し、穏やかな時代だったんじゃないかと思う。だって、みんな同じようにしてたんだからさ。

その当時は重いジャズが好まれていたんだけど、ボク自身はボサノヴァ・ジャズがお気に入りだった。なによりその軽やかなリズムが好きだったんだけど、スタン・ゲッツの甘いサックスの音色や、チャーリー・バードのナイロン弦ギターが紡ぎ出すナチュラルな音色に聞き入っていたのだった。

ということで、なんの脈絡もないんだけど、今週の一枚に、そのチャーリー・バードが99年にリリースしたラスト・アルバム、サッチモことルイ・アームストロングに捧げられたアルバムを取り上げます。収録曲は「小さな花」「ニューヨークの秋」「ハロー・ドリー」、さらには「この素晴らしき世界」など、よく知られた定番ぞろい。全12曲。ギターはもちろんチャーリー・バード、ピアノはロバート・レッド、ベースはデニス・アーウィン、ドラムスはチャック・レッド、トランペットがジョー・ワイルダー、サックスがスティーブ・ウィルソン。チャーリー・バードのことしかよく知らないんだけど、みんな心地よくスイングしてて仕合わせな気分になります。

by naomemo | 2010-02-16 08:33

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写真は、数日前に撮った、小雨の中の梅です。あと一週間もすれば、一斉に咲き始めるのかなという感じ。

さて、週末にアンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」を観てきました。昨年末から公開されてたので、ようやく、という感じなんだけどね。とにもかくにも、これほどまでに野太く、虚飾のない作品を撮り切った、ワイダ監督の意志と情熱と体力に、まずは拍手。こんな作品、滅多に出会えるものじゃない。

冒頭に、妻が、夫のアンジェイ大佐を尋ね歩く印象的なシーンがある。ようやく探し当てて、妻は夫に向かってこんなことを言う。

どうして行ってしまうの…、もう私を愛してないのね…、家族と国家とどちらが大切なの…、行かないで…。

軍人の夫は、離れ難い思いを抱きつつも、ロシアの捕虜となって黙って列車に乗り込む。女たちにとって大切なのは、国家ではなく、家族なのだが、男たちは、国家というものの幻想に忠誠を尽くし、そして無意味な死を迎える。いつの世も変わらないものなんだねえ、ほんとに。夫の生存を信じる妻は、いつまでも、いつまでも、夫の帰りを待ち続ける。

帰りの電車のなかでメモしたことを、ふたつ。ひとつは、ソ連のスターリンがカティンの森で実行させたこととは、つまり、ポーランドの「優秀な人間」の皆殺しだったんだな、と。これほどの殺戮を躊躇なく行なわせたスターリンの生い立ちとは、どんなものだったんだろうか。もうひとつ、ヨーロッパで信仰心が薄くなったのは、大陸を戦場にした二つの戦争のせいなのかも知れない、ということ。それを示唆するシーンもある。この作品で描かれていることは、現代にもしっかりつながってるんだよね。

それにしても、残された妻たちの、なんと気丈なことか。

エンディングの銃殺シーンのあと、まるでフィルムが切れたかのように画面がパッと白くなる。ほんの数十秒?ほどの間、レクイエムらしき曲の一節が流れる。そのあと画面が黒く反転し音が消える。静かに、黒バックに白抜きのエンドロールだけが、延々と映し出される。これほど静謐なエンディングは、ちょっと記憶にないね。ちなみに、後で調べたところ、このレクイエムは、ペンデレツキという人の「ポーランド・レクイエム」だと知った。ナクソスから出ているようなので、いっぺん全曲通して聴いてみたいものだ。



おまけです。youtubeにワイダ監督の特集TV番組が上がっていたので、リンクをシェアさせてもらいましす。タイトルは「アンジェイ・ワイダ 祖国ポーランドを撮り続けた男」。


by naomemo | 2010-02-15 08:42 | シネマパラダイス

梅もいいけど、羊羹も。



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九州では春一番が吹いたそうです。伊豆の河津桜も咲き始めたようです。でも、わが家の周辺では梅が咲き始めたばかり。今日も小雨まじりの天候で冷えてます。

珍しく天候の話で始めちゃったけど、写真は昨日食した上野うさぎやの「喜作羊羹」です。じつに旨かったです。虎屋の「夜の梅」みたく繊細でもないし緻密でもないのだけれど、逆にその素朴な口当たりと味わいがいいですね。さしずめ人間で言えば、付き合いやすいヤツ、ってところかな。昔から、うさぎやの「喜作最中」のファンという連れ合いは、ついでの時でいいから最中もお願いね、なんて言ってる。花もいいけど、団子もいいと、そういうことだよね。

さて、アティーク・ラヒーミーの「悲しみを聴く石」という小説を読み始めました。この人、アフガン出身の亡命作家。小説二作目のこの作品はフランス語で書かれゴンクール賞に輝いたとか。音楽ライターの飯尾さんがブログで紹介していて、「戦慄」、と。よし、読んでみるか、と。これまでのところ、まるで脚本を読んでるような印象だね。これ、ひょっとしたら映画化されるかも。感想はあらためて。

(追記)
あ、そうだ。言い忘れてたけど、一昨日、「はじめての金読本」更新しました。よろしくね。

by naomemo | 2010-02-12 08:20

WORLD CLASSICS@CINEMA


新しい試みが始まってる。昨年、UKオペラ@シネマと銘打った企画が展開していたらしい。英国のロイヤルオペラなどで上演されたオペラのライブ映像が、ソニーの仕切りで各地の映画館に配給されていたそうだ。聞いたことがあったような、なかったような…。これまでクラシカルの分野では器楽曲ばかり聴いてきて、ほとんどオペラには縁がなかったんだけど、そろそろいいかもと思い始めていた矢先に、あらま、びっくり、である。これ、僕みたいなオペラ入門希望者にはぴったりかも。

おそらく、昨年の「UKオペラ@シネマ」が好評だったんだろうね、今年はその名も「WORLD CLASSICS@CINEMA」へ脱皮して、中身も充実、規模もぐっと拡大している模様だ。「映画館で楽しむオペラとバレエの世界紀行」となっている。折をみて、観てみようと思う。

正直、この手の企画、以前なら「そんなアホなことを」と思ったに違いない。ライブはライブ、複製は複製でしょ、と。けれど昨年マイケルの「this is it」を映画館で観て、なるほど、こういうカタチもありなんだなと実感しちゃったのだ。実際、映画館に足を運んで、世の中、映画ファンより音楽ファンの方が圧倒的に多いこともあらためて痛感したしね。今では「それ、ありだよ」って思う。

それに映画館はすでに供給過剰の状態にあって、いつ整理淘汰が始まっても不思議じゃない。ハコばかり作って来たからだよと非難したい気もするけど、そんなヒマがあったら、出来てるハコを再利用というか有効利用する方が正しき道じゃなかろうか。いや、正しいかどうかは分からない。三歩ゆずって、いまどきの考え方、かな。それと、さっきの「this is it」に話に戻るけど、当の本人マイケルが亡くなって、もう永遠にステージが観られないからという理由があるにせよ、20回、30回と映画館に通いつめたファンも多いのだよね。ここには大きなヒントがあると思うんだよね。

いろいろ考え合わせると、映画館での音楽ライブ映像の放映は、なにもクラシカル分野に限る必要はないし、ポップやロックに間口を広げたら面白いんじゃないのかな、と。演劇まで広げたっていいしね。音響設備の良いところをチョイスして手軽な料金で展開したら、もちろん演し物次第だけど、そそそこ盛り上がるんじゃないのかな。ただ悪ノリすると飽きられるから要注意だけどね。

こういうの、ソニーピクチャーズとソニーミュージックあたりが連携して展開すれば成立するような気がするけどな。あるいは、wowowあたりがやってくれてもいいんだけどさ。どうでしょうね。

by naomemo | 2010-02-10 08:25 | シネマパラダイス


トヨタのリコール問題に、以前、「里山のリスクヘッジ」という切り口で触れたことがある。その後どうなっていくのか、ときどきニュースを追っていたんだけど、ここにきてトヨタ車の不具合問題は一気に燃え上がって、なにやら危ない雰囲気になってきたね。

なにが危ないかって、このまま行くとヒステリックな排斥運動にまで発展しかねない気がするからだよね。トヨタの対応のまずさに問題はあったにせよ、いっこうに改善しない経済や生活に対する憤懣が米国内に溜まりにたまっていることが背景にあるように見える。その憤懣のエネルギーが捌け口を求めて暴発しかけている感じ。この先、なにが起きても不思議じゃないかも。

少し話しが飛ぶけど、先日、米国内で国債が人気化しているという記事があった。最初、どうして?と疑問に思ったけど、考えてみれば米国内では昨年一年間だけで地方銀行が100行ほど倒産しているのだった。「ニューノーマル(新たな普通)」なんていう言葉が聞こえてくるし、貯蓄率も上がり始めているということだけど、貯蓄する先が銀行では不安、ということなのかな。それで、行き場を失った庶民の貯蓄が国債へ流れ込んでいるんだとしたら、それもまた怖い話だ。最近、「米国債バブル」なんて言葉が聞こえるけど、そういうことも関係してるんだろうね、きっと。それくらい、いまの米国内に渦巻く不安や不信は根深いということか。

ここまで書いてきて、例のタイガー・ウッズの女性問題に対する米国マスコミの過剰なバッシングも、同一線上にあることかも、と思えてきた。なにやら社会全体が煮えたぎった鍋のようになってる感じ。オバマ政権が、金融規制、富裕層への増税に舵を切りつつあるのは、必然なんだろうね。

それにしても、トヨタは状況認識がちょっと甘いかも。

by naomemo | 2010-02-04 08:43 | ノン・カテゴリー