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今朝は散歩を控えようかと思ったが、窓を開けてみると小雨である。帽子を冠って歩けないことはない。ちょいと迷ったが、すぐにそそくさと用意をして、念のため傘を持って出かけた。それにしても、このところ雨が多い。7月初旬に梅雨明け宣言が出た時に、ちと早いんじゃないかと思ったけど、案の定、月末が近づいて梅雨の戻りと相成った。今年は冷夏になるのかも知れないな。

さて、土用入りして十日目である。例年なら、いまごろ「あぢぢー」なんて言いながら騒いでる頃である。となれば、やっぱり「鰻の幇間」を、志ん朝で聴いておかなくちゃ。こいつを聴くには、ちと暑さ不足ではあるんだけど、ま、天候ばかりは仕方なし。

以前、桂文楽の「鰻の幇間」を、「どことなく哀愁がただよう噺に仕上がっている」と評して紹介した。でも、文楽の芸をしっかり受け継いでいると思われる志ん朝の「鰻の幇間」からは、あまり「哀愁」を感じることがない。なんとなく文楽が表現した「哀愁」を、意図的に退けているように感じる。主人公の野だいこ一八を厳しく突き放しているようにさえ聞こえる。どうしてなのかなあと前から気になっていた。

文楽の生前には健在であったであろう幇間も、志ん朝の時代にはすでに絶滅危惧種と化している。だから、お客さんが幇間の存在を知らないことを前提に、幇間について、そしてその成れの果てとしての野だいこについて、用意周到なまくらを展開している。

桜川忠七という幇間の名人の言葉として、客ってえのは自慢話をしたがるものだから、その話をとても興味を持って聞いてやる、自分からしゃべらないで、相手の話を聴いてやるのが大切なんだと伝えている。ところが、本編の主人公の野だいこ一八は、じつによくしゃべる男なのである。相手の旦那にほとんどしゃべる暇を与えないくらい、よくしゃべる。

旦那が、一八に向かって、「いい下駄はいてるねえ」と褒めるシーンが序盤に登場する。そこで一八は、「旦那、あたしたちがやるようなことしちゃあいけません」と応じている。さらに、うなぎやの二階座敷で、旦那は一八を上座に座らせようとしているのだ。うっかりなのか、探りを入れているのかは不明だけれど。

しかし、ここまで来れば、この旦那が「旦那」でないことは明らかだろう。一八よりも一枚も二枚も上手の、すれっからしの同業に違いあるまい。それにひき比べ、一八の、なんともお人好しなこと。そこがまた堪らなくいいんだけどねえ。

ちなみに、志ん朝は、二十代の頃に、守り本尊の虚空蔵菩薩のお使いが鰻であると聞き及び、以来、六十三歳で亡くなる晩年まで、大好物の「鰻」を断ったという。この鰻屋の二階で、「噛みごたえのある」鰻を食べている志ん朝の演技の、なんと素晴らしいことか。「鰻の幇間」は、かなり思い入れのあるネタだったのではないかと勝手に思っている。

by naomemo | 2009-07-29 12:30 | 音楽から落語まで


このところ日の出前に自宅を出て、一時間ほど周辺を散歩している。しばらく歩いているうちに、ようやく空が白み始める。木々が繁茂した緑地公園にいたると、ここはヒグラシの森なのかと思うほど、あちこちで、かなかなかな、という鳴き声が響き渡っている。そのうちに小鳥たちのさえずりも聞こえ始める。ときおりカラスたちも、かまびすしく騒ぐ。

そんなことも影響しているのか、今週は久しぶりにG.F.ヘンデルの「オルガン協奏曲集」をテョイスして、通勤電車のなかで聴いている。とても心地よい。

ヘンデルといえば、いうまでもなくJ.S.バッハと同世代なのだが、両者の音楽性には大きな違いがあるように感じる。一例を挙げれば、バッハの音楽が重くて複雑であるのに対して、ヘンデルの音楽は軽みがあってシンプルである。「洗練」という観点でいえば、ヘンデルの方に軍配を上げざるを得ないだろうな。かっこいいし、粋だと思う。

僕が聴いているのは、サイモン・プレスト(オルガン)、イングリッシュ・コンサート(オーケストラ)、トレヴァー・ピノック(指揮・チェンバロ)の演奏。英国のメンバーだけあって、クリアーで清潔感あふれる音である。ただ、欲をいえば、少し陰影がほしい感じがしないでもない。

ま、でも、それは無い物ねだりなのかもね。その、ドイツの森の陰影のようなものを、きっぱり消し去っているのが、そもそもドイツからイギリスに渡って、ほとんどイギリス人となったヘンデルの音楽性の特徴なのだろうから。

ヘンデル:オルガン協奏曲集

by naomemo | 2009-07-28 08:15


待ってました。やってくれました。早朝の散歩から戻り、汗をふきふきポストに入っていた日経と朝日を抜き取り、テーブルの上にポーンを投げた途端、目に飛び込んできたのが、藍ちゃんの朗報でした。スランプを乗り越えての優勝だけに、喜びもひとしおでしょう。

応援しているファンとしても、とにかくうれしい。インタビューで印象に残ったのは、「この4年は無駄ではなかった」という言葉だね。ほんと前向きだね。これからさらに活躍してくれそうな予感がする。

次のトーナメントは、全英リコー女子オープン。飛距離が大きなアドバンテージになる米国本土のコースと違って、全英が開催されるコースは日本人にも十分勝つチャンスがあるというから、この勢いを駆って、また頑張ってほしいね。

by naomemo | 2009-07-27 06:00

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戦争の忌まわしい記憶を絶対に風化させてはならない。長い歴史のなかで幾度も悲惨な状況を経験してきた欧州には、二度と戦争を起こしたくないという強い志のようなものがあるようだ。その志が第二次大戦後60年以上経過したいまも引き継がれており、ときおり映画にも色濃く現れる。ともすると戦争讃歌とも受け取れる映画を好んで製作する米国とは、一線を画すところだと思う。

物語は、一人の男が、窓から外を覗くシーンから始まる。映画の文法にのっとって、窓は、タイムスリップの装置として存在している。通りを走る電車の中に、少年の姿が見える。その少年が、こんどは男の方を見返す。現在からの視線と過去からの視線が交錯し、観客の視線に重なっていく。

1958年。復興途上にあるドイツ。ティーンエイジャーのマイケルは、20歳ほど年上の女性ハンナと偶然出会う。そして恋に落ちる。マイケルはそれを求め、ハンナはそれを受け入れる。ハンナが進んで求めたようにも見える。30代半ばの女性が、10代半ばの少年を、それほどたやすく受け入れるものだろうか?孤独ゆえだろうか?観客は、ひとつの「?」を抱えたまま、物語に身を委ねる。

ハンナは物語をこよなく愛している。しかし、自分から本を読むことはない。いつもマイケルに朗読を頼む。いつのまにか、マイケルに身を委ねるのと、マイケルの朗読に身をゆだねているのと、ほとんど等価のように見えてくる。というより、ハンナは朗読の見返りに身を委ねているように見える。この不思議な関係はいつまで続くのだろうと思い始めた矢先に、ハンナは、市電の車掌としての仕事ぶりが会社から評価され、内勤への異動を命じられる。

ハンナはマイケルの前から姿を消す。映像では紹介されないが、マイケルはハンナの行き先を求めて、あちこち探しまわったに違いない。しかし、杳として行方は知れず。なぜ彼女が去ったのか、マイケルには思い当たる理由はなにもない。観客にも、その理由は明かされない。だから観客も、マイケルの気持ちに寄り添って、時の流れに身を委ねることになる。

1966年。法学生となったマイケルが授業の一環で傍聴することになった裁判の被告席に、ハンナが登場する。ハンナは、戦争中、看守としてナチに加担した罪を問われ、裁かれる女性達の一人としてそこにいた。彼女は、一緒に裁かれる女性達の不当な証言を受け入れて、無期懲役の判決を受け入れる。受け入れる必要のない罪まで、なぜ受け入れる気になったのか。彼女は何を隠しているのか。かつて何を隠していたのか。ひと夏のこととはいえ、ハンナと愛し合ったマイケルだけは、その理由を理解する。そして同時に観客も知らされることになる。それにしてもなぜ?という思いが残りはするが。

1976年。裁判から10年。弁護士になり、結婚と離婚を経験したマイケルは、ふたたびハンナの朗読者になることを決意する。オデュッセイ、ドクトル・ジバゴなど、何冊も何冊も、テープレコーダーに向かって朗読し、録音し、獄中のハンナに送り続ける。その録音テープから流れる朗読が、ハンナの生きる糧となる。それは彼女にとって、かけがえのないものだったに違いない。

さらに幾歳月が過ぎ、老いたアンナは釈放されることになる。マイケルは刑務所の担当官からの連絡で知らされ、面会に訪れる。刑務所の担当官からの依頼で、落ち着き先やら仕事やらを手当してある。が、その面会で、マイケルはハンナに問う。過去の出来事をどう考えているのか、と。彼女は答える。Dead is dead=亡くなった人は生き返らない、と。この期に及んで、そんな質問をするところに、マイケルが抱え込んできた、愛やら苦しみやら恨みやらが如実に表れている。そしてハンナの失踪ゆえに負うことになった精神的な未熟さも露になっている。

エンディングがしばし不可解だった。いろんな意見があるだろう。しかし、いまは、この初老を迎えた男の未熟さを強調するための方法なのだろうなと、僕は思っている。脚本:デヴィッド・ヘア、監督:スティーブン・ダルドリー。彼らは、「めぐりあう時間たち」に続き、素晴らしい作品を届けてくれた。抑制の利いたダルドリーの演出に、拍手。ハンナ役:ケイト・ウィンシュレットの演技も二重丸である。



by naomemo | 2009-07-24 09:14 | シネマパラダイス

事務所の引越しやらなにやらが重なったとはいえ、ずいぶん更新を怠ってしまった。今日から再開です。ついでに早朝ウォーキングも再開した。最近なにやらランニングがブームで、僕の周りでもぞくぞく始めているのだけど、僕は走らない。というか、少し走ってみたのだが、右脚の付け根の奥に違和感を感じたので、歩くことにした。ケガをしたら阿呆らしいからね。

じつはここ数年、秋から春までの間は、通勤途上を利用して毎日1万歩は歩いていた。そして夏の間は早朝ウォーキングに切り替えていた。でも、今年は、この自己流サマータイムへの切り替えが遅れて、ひと月半ばかり歩いていなかったのだ。それに加えて、タバコを止めて食欲が旺盛になったままなので、体重増加が著しい。これは、ヤバイってんで、急いで早朝ウォーキング再開となった次第。

それにしても、久しぶりに早朝に連続して1時間(およそ6キロ)ほど歩くと、脚に来るね。5時半には歩き終えているというのに、血液が脚へ行ったまま、まだ頭に戻ってこないような感じ。ま、1週間もすれば慣れるでしょう。ということで、今日のところは、これにて終わり。

by naomemo | 2009-07-22 08:48


明後日12日に、事務所を移転するので多忙であります。それで、ブログの更新を怠っております。いくつか書いてあるものはあるのですが、どうもいまいち納得がいかないので、公開するに至っておりません。少し落ち着くであろう再来週あたりから、また再開します。取り急ぎ。

by naomemo | 2009-07-10 09:38


この話をブログに公開するのは止めておこうと思い、お蔵入りにしていた。でも、どうも妙なところで収束しそうな気配なので、やっぱり公開しようと思う。

これまでコンビニ業界では、弁当などの売れ残り品の処分に関わる費用は店舗側の負担として、本部側は一切関知してこなかった、つまり負担してこなかったという。店舗側が、日々独自に発注数を決定して販売しているというのなら、それも頷けないことではない。けれども、どうやら実情は違っているらしく、本部側は自分たちの利益を優先し、店舗側の欠品によるチャンス・ロスをとがめ、適正以上の発注をさせてきたという。

意図的に多めの発注が行われれば、当然のことながら、欠品は生じにくくなる。チャンス・ロスが減る訳だから、欠品が生じた時よりも、売上はかさ上げされるだろう。その代わりに、賞味期限をオーバーするものが発生しやすくなるのは道理である。それを顧客に販売することは無理だから、廃棄せざるを得なくなる。店舗側には、売上のたたない仕入が発生することになり、利益が減少することになる。その損失分を、これまで本部側はまったく負担して来なかったという。まさにコンビニ残酷物語だね。

ところが、こうした一連の仕組みがマスコミにすっぱ抜かれるや、これから本部側も、廃棄に関わるコストの一部を負担するという。なるほど、そうか。と、うっかり思いかけて、おや、なにか妙だなと気づいた。「負担する」か「負担しない」かの二元論になっている。二元論が登場した時は、ほんと要注意なのだ。この対応では、もっと大きな問題である「食物廃棄」が隠れてしまう。それどころか、ひょっとしたら助長する可能性すらある。

話が、売上、利益、効率だけで進んでいるように思えてならない。貴重な食物を平気で廃棄処分する感覚は、やはりおかしいと思う。弁当などには鮮度があるので、基本は売り切ることだろう。それでも天候やらなにやらの事情で困難なこともあるだろう。その場合は、入荷して一定時間が経過したものは、鮮度が落ち切る前に、マークダウンして売る方が健全だろうと思う。その場合の負担は、店舗側が負えばいいだろう。その方がかえってトータルコストは少なくなるだろうし、適正在庫の把握もしっかりして、利益も増えるのではないだろうか。なにより食物廃棄が減るはずだ。

本部側が、廃棄コストを一部負担するという方向でまとめようとするのは、問題のすり替えだろうし、ものごとをさらに悪化させるような気がする。

by naomemo | 2009-07-01 07:02