カテゴリ:音楽から落語まで( 42 )

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今朝は散歩を控えようかと思ったが、窓を開けてみると小雨である。帽子を冠って歩けないことはない。ちょいと迷ったが、すぐにそそくさと用意をして、念のため傘を持って出かけた。それにしても、このところ雨が多い。7月初旬に梅雨明け宣言が出た時に、ちと早いんじゃないかと思ったけど、案の定、月末が近づいて梅雨の戻りと相成った。今年は冷夏になるのかも知れないな。

さて、土用入りして十日目である。例年なら、いまごろ「あぢぢー」なんて言いながら騒いでる頃である。となれば、やっぱり「鰻の幇間」を、志ん朝で聴いておかなくちゃ。こいつを聴くには、ちと暑さ不足ではあるんだけど、ま、天候ばかりは仕方なし。

以前、桂文楽の「鰻の幇間」を、「どことなく哀愁がただよう噺に仕上がっている」と評して紹介した。でも、文楽の芸をしっかり受け継いでいると思われる志ん朝の「鰻の幇間」からは、あまり「哀愁」を感じることがない。なんとなく文楽が表現した「哀愁」を、意図的に退けているように感じる。主人公の野だいこ一八を厳しく突き放しているようにさえ聞こえる。どうしてなのかなあと前から気になっていた。

文楽の生前には健在であったであろう幇間も、志ん朝の時代にはすでに絶滅危惧種と化している。だから、お客さんが幇間の存在を知らないことを前提に、幇間について、そしてその成れの果てとしての野だいこについて、用意周到なまくらを展開している。

桜川忠七という幇間の名人の言葉として、客ってえのは自慢話をしたがるものだから、その話をとても興味を持って聞いてやる、自分からしゃべらないで、相手の話を聴いてやるのが大切なんだと伝えている。ところが、本編の主人公の野だいこ一八は、じつによくしゃべる男なのである。相手の旦那にほとんどしゃべる暇を与えないくらい、よくしゃべる。

旦那が、一八に向かって、「いい下駄はいてるねえ」と褒めるシーンが序盤に登場する。そこで一八は、「旦那、あたしたちがやるようなことしちゃあいけません」と応じている。さらに、うなぎやの二階座敷で、旦那は一八を上座に座らせようとしているのだ。うっかりなのか、探りを入れているのかは不明だけれど。

しかし、ここまで来れば、この旦那が「旦那」でないことは明らかだろう。一八よりも一枚も二枚も上手の、すれっからしの同業に違いあるまい。それにひき比べ、一八の、なんともお人好しなこと。そこがまた堪らなくいいんだけどねえ。

ちなみに、志ん朝は、二十代の頃に、守り本尊の虚空蔵菩薩のお使いが鰻であると聞き及び、以来、六十三歳で亡くなる晩年まで、大好物の「鰻」を断ったという。この鰻屋の二階で、「噛みごたえのある」鰻を食べている志ん朝の演技の、なんと素晴らしいことか。「鰻の幇間」は、かなり思い入れのあるネタだったのではないかと勝手に思っている。

by naomemo | 2009-07-29 12:30 | 音楽から落語まで

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落語で昭和の三大名人といえば、古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭円生ということになっている。その後、四天王と呼ばれたのが、古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭円楽、春風亭柳朝(あるいは橘屋円蔵)である。なかでも志ん朝と談志は、群を抜いていたこともあって、比較されることが多い。

また、談志ファンは志ん朝も好むが、志ん朝ファンは談志を好まないとも言われている。統計的にどうなのか知らないが、僕自身も志ん朝ファンで、これまで談志は積極的には聴いていない。

なぜか。たとえば、落語のどこが好きかという質問に対する二人の答えを聞けば、その違いは明瞭だと思う。志ん朝には「狐や狸が出てくるところ」と答えて憚らない洒脱さがある。理屈は言わない。すべては高座に表れるとする潔さがあるように感じる。一方の談志は「人間の業を肯定しているところ」と答えるデモーニッシュな理論派である。落語にテーマ性を持ち込んだ、革命児としての顔がある。かたや粋、かたや無骨といっても良いだろう。ようするに落語に対する考え方、姿勢、態度がまるきり違うのだ。

そんなことから、古くからの落語ファンが「談志の迷宮 志ん朝の闇」というタイトルを見たら、こうした事情を思い浮かべながら、この本を手に取るに違いない。しかし、そうなると、おそらく期待外れになるだろう。この本は、談志と志ん朝の違いを深く掘り下げているわけではないからだ。本人が付けたのか、版元が付けたのか知らないが、ひょっとしたら、このタイトルがマイナスになって、評価を下げているかも知れない。

でも、あくまでも落語ネタのエッセイ集、あるいは「落語が僕の先生だった」といった趣きのエッセイ集と思って読めば、それはそれで十分に楽しめる一冊ではある。若い頃から、落語が著者の生活の一部としてあったらしいことも伝わってくるし、著者の落語に対する愛情は本物だろうとも感じるからね。こういう入門書があってもいいんじゃないかとも思う。僕はこの本を読んで、そろそろ談志を聴いてみようかなと思い始めている。

取り上げられている落語ネタは次の通り。文七元結、富久、笠碁、付き馬、試し酒、鰻の幇間、雑俳、明烏、黄金餅、垂乳根、宮戸川、化物使い、馬のす、火事息子、芝浜。

著者は、立川末広。この人、並外れた競馬好きのようでもあります。

by naomemo | 2009-06-24 07:05 | 音楽から落語まで

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落語には、ときおり幇間(ほうかん)が登場する。幇間という言葉はもはや死語の類いだろうから、「たいこ持ち」と言った方が通りは良いかも知れない。いやいや、幇間という職業そのものが絶滅しかけているのだから、呼び名を変えたところで、ちゃんと伝わるとは思いにくい。じっさい僕自身も、本物に出会ったことはない。あくまでも、本や、映画や、ドラマや、落語のなかで出会うだけだ。

幇間とは、旦那衆のお座敷遊びを盛り上げる、あるいはお客さんをヨイショして気持ちよい時間を過ごしてもらう、という役割を受け持つ職業だろう。つまり遊びのサポート役なのだから、落語でも主役は張りにくい。「愛宕山」に登場する脇役としての存在感くらいが似つかわしいだろう。

まれに主役で登場することもあり、その場合はドジな幇間と相場は決まっている。暑い夏の昼下がりの出来事を描いている「鰻の幇間」は、その代表格といってよいだろう。主人公の幇間は、もともと置屋に籍をおいていたようだが、何かしくじりでもしたか、いまは旦那衆のお宅を訪れて引っぱり出すアナ釣りやら、町を流して旦那衆を捕まえるオカ釣りが専門である。つまり、「野だいこ」ってやつだね。

あっちも留守、こっちも留守。けっきょく町を流し、ようやく捕まえたのが浴衣姿の旦那。どこかで会っているようだが、思い出せない。いろいろ駆け引きしながら情報を探り出そうとするが、テキもさるもの、なかなか尻尾はつかませない。やがて旦那の案内で連れて行かれたのが、見てくれは汚いが鰻は絶品(?)、という店だった。

先に上がってくれと言われて二階が上がってみると、たしかに汚い店。なにやら不安を感じるも、旦那に向かってそんなことは口が裂けても言えない。新香をつまみながら杯をぼちぼち重ね始めるや、もう鰻が運ばれてくる。早すぎるんじゃないか?すると、旦那が、ちょいと厠へと言って席を外す。一人手酌で進めるうち、なかなか戻ってこないことを不審に思って厠へ向かうと、そこはもぬけのから。一杯食わされた。土産に三人前も持ち帰られ、商売道具の上等な下駄まで盗まれ、という始末。

その間の独り言やら、女中とのやりとりがじつに面白いのだが、何度か聞いているうちに、疑問が浮かんでくる。あの旦那はいったい何者なんだろう?落語にワルは登場しないのが定石なんだが、この旦那はクセ者である。主人公を野だいこと知っての悪さに相違ない。ひょっとしたら、同業の野だいこか。はたまた野だいこ狩りか。

野だいこという存在は、その図々しさ、その狡さ、その調子の良さで、庶民から敬遠されていたに違いない。でも、人のいいドジな野だいこが、ここまでやられると、さすがに酷だなあという思いが湧いてくる。そのあたりの機微をそこはかとなく伝えてくれるのが、黒門町こと八代目桂文楽。どことなく哀愁がただよう噺に仕上がっている。

by naomemo | 2009-06-11 07:03 | 音楽から落語まで

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先日、菊六落語会で聞いた「あくび指南」にも出てきたが、ここ数日聞いている「船徳」にも出てくるのが、船遊び。この二席、すなわち、夏の出し物ということなんだね。CDで落語を聞くときって、季節を意識せずに演目を選ぶことがあるが、それはやっぱり邪道だよなと思うようになった。春には春の、夏には夏の演目を聞くべし、と。

さて、その「船徳」なんだけど、ここ数日、あらためて文楽、馬生、志ん朝、小三治で聞いてみた。この噺、もともとは「お初徳兵衛」という長尺の人情噺だったらしいのだが、明治期にその発端部が切り取られて滑稽噺となり、あらたに「船徳」という出し物になって定番化したそうな。それを、いま高座で聞く形にしたのが、文楽すなわち黒門町とか。だから基本的には、文楽が作った流れのなかで口演されていることになる。

元の人情噺の雰囲気を残しているのだろうなあと思われるのが、馬生。きっと親父の志ん生ゆずりなんだろうな。文楽はもちろん、志ん朝も、小三治も、シンプルな滑稽噺としてやっている。私は長らく志ん朝で聞いてきたのだが、久しぶりに聞いて、この噺にしては、少しテンポが早いかもなあという気がしてきた。ちょっと青い感じ。まだ若い時の録音だから致し方ないかも知れない。そして、今回初めて小三治のを聞いた。2年前に録音されたもので、もう押しも押されもせぬ名人の味わい。登場人物ひとりひとりを、ここまで丁寧に彫り上げた「船徳」は、これまで聞いたことがない。テンポも、暑い夏にふさわしく、じつにのんびりしたもの。そこが、また、いいのだ。落語って、俳句と一緒で、季節感の演出が大事なんだね。この場合は、ゆったりしたリズムが必須ということだね。

これから船徳を聞くなら、小三治で決まりだね。

あらすじを知りたい向きは、こちら(「落語のあらすじ 千字寄席」)へどうぞ。どなたか知らないが、じつに懇切丁寧に、さまざまな演目のあらすじをまとめていらっしゃいます。ほんと、頭が下がります。

ちなみに、この船徳の舞台は、四万六千日(しまんろくせんにち)の柳橋から浅草。時節は、7月9日、10日、つまり浅草寺の縁日、ほおづき市のある両日。浅草寺近辺は人で溢れるのだろうな。今年あたり覗いてみるか。

by naomemo | 2009-06-04 07:00 | 音楽から落語まで

菊六落語会、ふたたび。

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先週の金曜日は、待ちに待った古今亭菊六の落語会だった。会場は築地のパレットクラブ。収容人数は60名ほどだが、満席。女性客8割、男性客2割くらいだったか。席亭は原田治さん。そう、あのオサムグッズの生みの親である。

菊六の高座を聞いたのは、今年の2月が初めてで、その時は「湯屋番」と「火炎太鼓」を演じていた。今回は、とぼけた味わいのある「あくび指南」と、人情に迫る「子は鎹(かすがい)」。なかなか面白い組み合わせだった。

「あくび指南」の方は小三治師匠のCDで聞いたことがあるが、いまいち乗り切れなかった記憶がある。そのせいか、あまり面白い噺じゃないのだなあと思っていた。ところが、今回、菊六で聞いて、あれれ、こんな面白い噺だったの?という感じ。笑ったし、楽しかったし、見事だった。呼吸がいいというか、抜群に間がいいというか。じつに気持ちよく江戸の街角にある「あくび指南所」に連れて行ってくれた。若いのに風格さえ漂い始めている。恐るべし、古今亭菊六。

次回は7月10日に開催という。もちろんまた来るつもり。

by naomemo | 2009-05-24 23:41 | 音楽から落語まで

野町和嘉の「聖地巡礼」

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先月初め、J-WAVEを聴いていたら、写真家の野町和嘉さんがゲストで登場していた。相手役のホストは、たしかレイチェル・チャンだったかな。その会話を聞いていて、なんだか無性に彼の写真が見たくなり、恵比寿の東京都写真美術館に足を運んだ。

もうひと月以上も前のことになるのだが、印象が強烈で、以来、美術館で買い求めた「聖地巡礼」をときおり眺めたりしながら、これまであれこれ余韻を楽しんでいたのだった。でも、結局のところ、うまく言葉にできない。

感じているのは人生は苦難に満ちているということ。ゆえに世界は救いを求める祈りに充ちているということ。そして、神は死んではいなかったということだ。いま世界中が金融経済危機で縮こまっているようだが、この「聖地巡礼」を見ていると、経済危機なんて、とんでもなく阿呆らしいことに思えてくる。

そしてもうひとつ。日本では神あるいは世間知を超えるものが死に絶えてしまっているように思えてくる。無神論の歴史など100年にも満たないし、人間の知性などたかが知れているというのに…。

by naomemo | 2009-05-04 21:26 | 音楽から落語まで

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いまをときめく落語家の中でも、その語りの「間」の良さは随一と言われる立川志の輔。その噂がなんとなく気になって、以前、彼の「死神」をCDで聞いたことがある。「そうかなあ、そんなにいいかなあ、そうでもないんじゃないかなあ…」というのが正直な感想だった。そのダミ声も、好みではないし、立川流は口に合わないのかもなあと思ったりもしたものだ。

以来、彼の落語を聞くことはなかったが、昨日WOWOWで、彼の新作落語「歓喜の歌」を聞く機会に恵まれた。パルコ劇場でのライブの録画放映だった。

軽いジャブのようなマクラのあと、いきなりポーンと地方の公民館へ持って行かれた。しがない中年の主任と若手とのやりとりから、年末31日の公民館ホールの貸出しをダブルブッキングしてしまったらしいことが分かる。じつにドジでやる気のないやつらである。さらに、どちらも主婦のコーラスグループだったことから、「どうせ主婦の暇つぶしじゃないか」とタカをくくって対応。そこから、話しは厄介な方向へ展開していく。

しかしそのうちに、ラーメン屋の出前から聞かされたオカミさん(コーラスグループの一員)の頑張りとサービス精神(お昼に注文を間違えたお詫びに餃子を出前に持たせた)に心動かされ、ようやく気持ちがしっかり入って、問題を解決していくという主任たち。

聞いているうちに、いつのまにか好みじゃないダミ声も気にならなくなり、持っていかれました。笑いあり、ペーソスあり、涙あり。まるで落語映画を観ているような気分になっていた。

そう、落語映画なんだよな、たぶん。たとえば古今亭志ん朝の落語は「芝居の回り舞台」を想定して語られている雰囲気があるが、立川志の輔の落語は「映画のスクリーン」が想定されているのではないか。場面展開がじつに映画的なのだ。そこが彼の落語の新しさかも知れない。

落語の後、その映画作品も放映されていたので観たのだが、落語の方が圧倒的に面白かった。映画の方は、原作にない部分を書き込み過ぎたのがアダになったように思う。ようするに語り過ぎということだね。脚本と演出を担当した人には、余白とか省略の意味を知っていただきたいと思う。

by naomemo | 2009-03-16 07:00 | 音楽から落語まで

古今亭菊六を聞く

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古今亭志ん朝が好きである。なにはさておき声がいい。ツヤがあり、ハリがあり、高座でも舞台でもよく通る声だったに違いない。

ポンポンポンポンポーンと刻まれるリズムがまたいい。音楽では当たり前のことだが、リズムってのは落語にとっても重要で、噺を前へ前へと運んでいく推進力の役割を担っているのだ。

そして登場人物の演じ分け。おそらく長年の芝居経験を通じて会得したのだろうが、色っぽい女をやらせても気風のいい職人をやらせても、じつにうまい。もうほとんど独り芝居の域に達していた。稀有の落語家だったと思う。 

そんな志ん朝の再来!と目される二つ目がいるという噂を耳にした。ホントかい?と半信半疑ながらも、心穏やかではいられない。名前を聞くと、菊六だという。師匠は誰かと調べてみたら、円菊とある。「背中の志ん生」の作者ではないか。本を読んだことはあるが、高座を聞いたことはない。CDでもない。志ん生最後の弟子、大器晩成の苦労人という程度の知識しかなかったが、その弟子の菊六が、志ん朝の再来と聞けば、これはもう自分の目と耳で確かめるほかあるまい。

というわけで、先週土曜日の昼下がり築地まで出かけた。前座が寿限無をやって、その後に登場。29才とは思えぬ落ち着いた風情。なかなか色男である。麻生太郎の不甲斐なさやら(大学の先輩に当たるそうな)、三平襲名の場所のことやら、ちと辛辣とも取れるマクラの後、やおら始まったのが「湯屋番」。噺を自分のものにしていて、人物をよく演じ分けていて、愉快であった。もちろん声もいい。

10分の休憩を挟んで、次の出し物は「火焔太鼓」。湯番屋はさておき、火焔太鼓といえば、志ん生の十八番ではなかったか。どうなることか、期待半分、心配半分。本人も相当気合いが入っていたようで、汗びっしょりになって演じていた。好感が持てた。これから機会を見つけて出かけようと思った。

ただ、ひとつだけ気になった。志ん朝は決して見せなかった「毒」のようなものが、かすかに匂ったことだ。そのあたりがどうなっていくのかも見守っていきたい。

by naomemo | 2009-02-16 08:31 | 音楽から落語まで

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半年前まで、世界に冠たる超優良企業と言われていた大手企業が、この時期になって軒並み人員削減に動いている。さすがに心中穏やかではいられない。国際展開が進んでいる企業ほど、海外需要の後退と円独歩高のダブル効果で厳しいのは、皮肉なことだと思う。それほどに厳しい状況とはいえ、この寒い年末になって、いきなり仕事と住まいの両方を奪う結果になってしまうのは辛いことではあろう。さらに、下請け、孫請けという構造に人材派遣がからんで、問題がより複雑になっているようでもある。しかし、それでもなお、もちっとましな対応が出来ないものだろうかと思う。

さて、そんなことを思いつつ、志ん朝の火炎太鼓を聞き始め、マクラを楽しんでいるうちに、いつのまにか江戸時代にワープして、気持ちがホクホクと温もってきた。

世の亭主ってのは、古女房に、ほんと、頭が上がらないんだねえ。なによりもまず口数からして亭主は気持ちよく負けてます。喋っているうちに、あれれ、いつのまにか旗色が悪くなっているのだ。偉そうに見える亭主ほど、じつは内心、古女房が一番怖いのだねえ。というか古女房に弱いんだねえ。

「火焔太鼓」の主人公は、古道具屋の主人甚兵衛さん。毎度毎度、二足三文の品ばかり仕入れきては損ばかりしてるだの、客あしらいからしてなってないだの、小言ばかり言われている。もう、さんざんである。ところが、そんなお人好しで商売下手な甚兵衛さんにも僥倖は訪れる。たまたま仕入れて来たホコリを被った年代ものの太鼓の掃除を、下働きの甥の定吉に頼んだところ、掃除をよそに、ドンドンドドドン、ドドドンドーン…と太鼓を叩いて遊んでいる。そこへたまたま通りかかった殿様の耳に止り、のちほど屋敷に呼ばれて、世に二つとない太鼓だと知らされ、三百金で買い上げられることになる。あとでその話を亭主から聞いた古女房の喜びようったらないのだ。だって、一分二朱で仕入れた太鼓が三百金で売れるなんて、富くじに当たったようなものだもの。

ほんと、どうってこともない噺。でも、亭主と古女房、亭主と殿様の使いとの間で交わされるやりとりが、なんともばかばかしく、目出たく、愉快なのだ。そして、悪意のない庶民の頭上にこそ僥倖は訪れるのが古典落語の文法なんだよと、志ん朝はそれとなく私たちに気づかせてくれているようにも思えてくるのだ。じつに温かい気分になれる、この年末、おすすめの一席であります。

ちなみに、この録音は1999年。物故される2年前。声にも話し方にも年季が入っています。

by naomemo | 2008-12-17 07:00 | 音楽から落語まで

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日々、禁煙が楽になってくる。いやいや、ほんと。あー、タ、タ、タバコ、なんて気持ちに襲われたのも先週末の2日間だけ。もうほとんど大丈夫みたい。とはいえ、まだ1ヶ月も経っていない。気を抜かないようにしないとね。

朝、混雑した電車に乗ってからイヤホンを耳に入れ、手探りで胸ポケットのiPodの電源を入れ、志ん朝の出囃子を探り当てる。あれれ、志ん朝が風邪の話なんかしてるよ、マクラでウィルスがどうのこうのって、志ん朝らしくないよなあ、そういえば以前もそんな感じを、この噺なんだったけかなあ、じれったいよなあ、あー、そうか、「羽織の遊び」だったかと思い当たった。 

それにしても、ほんと、じれったいんだよなあ、この噺。端っから、どっかの若旦那をたらしこんでナカ(吉原)へ繰り出そうって話になってるのに、そしてもちろん手頃な獲物まで登場させてナシ付けてるってえのに、ちっともナカへ向かえないのだ。行きたくて、行きたくて、行きたくて仕方ないのに、若旦那から言われた「羽織」が手に入らないおかげで、ちっとも行けないという物語なのだ。気持ちは前のめりになってるのに、身体が前に進んでいかないとでもいえばいいのだろうか。

今回久しぶりに聞き直して、やっぱり、じれったい。そう思いながら聞いていたが、聞き終えてから、でも、あー、うーん、そーね、このじれったさ、悪くねえかも、って思えてきた。ほんとかな?もう一回、聞き直してみた。この若いの、ほんと、じれったい。ニブイんだよなあ。だから、じつにじれったい。でも、志ん朝も、そのじれったいのを楽しんでるように聞こえて来る。だから聞く方も楽しんじゃえばいいんだよな。

by naomemo | 2008-12-05 07:45 | 音楽から落語まで