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米国を代表する映画産業の街として知られるハリウッドが、不況の波に飲み込まれているようだ。

今朝の朝日新聞によれば、ハリウッド映画の制作費の平均は一本あたり約64億円にのぼるとか(ロサンゼルス経済開発公社調べ)。米国で長く続いたバブル経済を背景に、近年とくに出演料や制作費が高騰していたことが大きな要因のようだ。

その莫大なコストを回収するための帰結として、とにもかくにも大勢の観客に受ける作品が良い作品とされ、マーケティングで映画が制作される傾向が強くなった。冗談じゃないよね。当然のことながら、作家性や作品の質は二の次となり、質の低下が顕著になった。

そこに100年の一度の不況の波が押し寄せ、二つのニーズが出会った。ひとつは巨額のマネーが動く映画産業を誘致したいという全米各州のニーズ。もうひとつは割高なハリウッドを離れて制作コストの削減に動きたいという映画会社のニーズ。全米各州が補助金の提供したり税優遇制度の設置したりして誘致にしのぎを削っているという。

たとえば車産業衰退に直面するミシガン州では、産業の多様化が急務ということもあって、ゼネラル・モーターズ所有のビルが映画スタジオに変身中とか。同州のとある高校では新設したキャンパスをテレビ番組の収録に提供しているとか。なんだかヘンな話だけど、そうなんだね。

ちなみに同じ英語圏である英国ではどうか。いくつかの情報から勘案するに、制作費の平均は一本あたり10億円程度だろうと思われる。ハリウッドの1/6である。ところが、作品の質については英国作品の質の方が圧倒的に高い。好みもあるので判断が難しいところだが、少なくとも僕はそう思っている。昨今のハリウッド映画は、あまりにも幼稚なものが多いのだ。大金を投下することが、かえって首を締める結果になっているね。お金さえかければいいってもんじゃない。これも強欲のツケに違いないね。

by naomemo | 2009-10-28 12:45 | シネマパラダイス

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今朝の日経新聞に、『「ちょい古」映画 劇場で安く』と題した記事があった。文脈から、名画座が人気になっているように読める。もしその通りなら、一映画ファンとしてもうれしいことだけど、いささかマユツバだなあという感じがしないでもない。

たとえば僕の場合は、基本的に単館やシネコンで新作を観ているのだけれど、かなりズボラな映画ファンゆえ見逃すこともしばしば。というわけで、ときどき名画座のお世話になっている。でも、これまで行列が出来ている場面に出会ったことはない。

記事に取り上げられている飯田橋のギンレイは、都内の名画座の中では人気館だろうけれど、行列が出来た背景に定額の年間パスポート(シネマクラブ)があることは明瞭で、そこに今回たまたまスラムドッグ・ミリオネアという超人気作品が重なったということなのだろう。

年間パスポートの仕組みを導入しているのは、都内ではギンレイだけじゃないかな。これまでのところ他館が追随する気配はない。おそらくギンレイは作品のチョイスと集客に自信があり、2週間の買い切りにしているのだろう。一方、他の上映館は、そこまで踏み込めない事情があり、歩合制に甘んじているのだろう。

ま、でも、この記事がきっかけになって、名画座に一般の目が向くのは良いことだね。記者も大の映画ファンで、昨今の映画館の不振を憂えて、あえて記事にしたと思いたい。それなら賛成、ケチをつける筋合いのものではないです。

ちなみに都内には、12館の名画座がある。

銀座シネパトス
シネマヴェーラ渋谷
新文芸座
目黒シネマ
早稲田松竹
浅草中央
浅草名画座
浅草新劇場
ギンレイホール
新橋文化
三軒茶屋シネマ
三軒茶屋中央

それぞれ特徴があって面白い。僕がときどきチェックしているのは、目黒シネマ、早稲田松竹、ギンレイ、新橋文化、三軒茶屋中央の5館だけだけど。

最後に、以前にも紹介したけど、名画座の上映情報を紹介しているサイトがある。興味のある向きは、こちらの「魅惑の名画座」へどうぞ。

by naomemo | 2009-10-20 08:40 | シネマパラダイス


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先日、「井上陽水のLIFE」という四夜連続放映のTV番組を観た。彼は、作詞の領域ではボブ・ディランから、生き方の領域で阿佐田哲也(色川武大)から大きな影響を受けたんだねえ。久しぶりに彼のGOLDEN BESTをiPodに入れて、このところ毎日聴いている。

その彼に「人生が二度あれば」という曲がある。そんなん、人生は一回切りに決まってんじゃん、と、長くそう思ってきたが、でも人は神様じゃない。ありえたかも知れない人生への思いは、年齢とともに大きくなるものなのかも知れない。

ジム・ジャームッシュという映画作家のBroken Flowers(ブロークン・フラワーズ)について書こうとしている。米国での公開は2005年だから、まさにバブル全盛の頃の作品といってよい。新作The Limits Of Control(リミッツ・オブ・コントロール)を観る前にと、久しぶりに見直したのだが、ここには、「ありえたかも知れない人生」についての、ジャームッシュの思いが詰まっているように思えてきた。

主人公のドン・ジョンストン(ジョンソンじゃなく、ジョンストン)は、老いた元ドン・ファン(ドン・ジュアン)という設定である。毎日が日曜日のように、フレッド・ペリーのジャージ上下に革靴というスタイルで、長椅子に座ったり、ゴロリと横になったりして過ごしている。昔コンピュータ・ビジネスで大儲けしたらしく、すでに悠々自適の老後。と言えば聞こえは良いが、何もすることがなく、退屈きわまりない生活を送っている。まるで生気が感じられない。そんなわけで、同居している若い彼女シェリーにも愛想を尽かされる。

ピンク色の郵便物が届く。差出人は判らないが、どうやら20年前に別れた女からの手紙のようだ。彼女には現在19歳になる息子がいるという。ドンと別れたあとに妊娠していることが分かったのだけれど、現実を受け入れて生んだのだという。その息子が、先日、旅に出た。おそらく父親を探す旅ではないかと思う。というものだった。

その手紙を隣人のウィンストン(ジェフリー・ライト)に見せたところ、妙に張り切り、ドンに20年前に付き合っていた女のリストを作れという。そして5人の女の居所を探し出し、ご丁寧に飛行機、レンタカー、宿泊場所まで手配し、ドンに差出人を突き止める旅へと誘導していく。なぜ?ウィンストンは、どうしてそんなお節介を焼くんだろう…。彼にはドンの心模様が手に取るように分かるようなんだけど…。狂言回しのようにも見えるし、ドンの分身のようにも見えるし、はたまた映画作者の分身のようにも思えてくる…。

気乗りしないと言いながら、ドンは、ウィンストンのシナリオに乗って、ピンクの花束を抱えて20年前の元カノを一人ずつ順に訪ねる旅に出る。

まず、ローラ(シャロン・ストーン)の娘ロリータの所作にたじろぐことになる。ついでドーラ(フランセス・コンロイ)と夫の関係にさざ波を立てることになり、カルメン(ジェシカ・ラング)の助手になぜか邪険にされ、ペニーの取り巻きには一発お見舞いされる始末。そして、土の下に眠るペペの墓前では涙を流す。なぜこんな旅に出かけて来てしまったのだろうか、自分でも理由がよく判らない。

住まいに戻った後、一人旅をしている青年を自分の息子と思い込んで追いかけるシーンがある。車の中から、ドン(ビル・マーレイ)をじっと見つめる青年が通り過ぎていくシーンがある。どうやらビル・マーレイの実の息子らしいのだけれど、その彼とて息子かも知れないし、息子ではないかも知れない。

結局、差出人は誰なのか。ドンにも、観客にも、分かったのかも知れないし、分からなかったのかも知れない。あるいは手紙の差出人が誰かなんて、最初からどうでもいいことだったのかも知れない。ピンクの手紙と隣人のウィンストンによって、ひょっとしたらありえたかも知れない、もうひとつの人生を探す旅に誘われたのだけれど、ありえたかも知れない人生を見つけることなど最初から出来るはずもなかったのかも知れない。ドンは、ただ、十字路に立ち尽くすほかないのだった。



by naomemo | 2009-10-08 08:33 | シネマパラダイス

シャネルもの、2本。

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9月の忙しい時期に5連休だなんて、仕事に差し障りが出るじゃないか。てなことをブツブツ言いいながらも、最初から分かっていることなので、やり繰りもつつがなく連休に突入。5日間ゆっくりしました。

その間に観た映画は4本。観た順番で云えば、「ココ・アヴァン・シャネル」「めがね」(これはWOWOW放映を録画してあったもの)、もう一本のシャネルもの「ココ・シャネル」、そして「キャデラック・レコード」。一日に映画館を二軒ハシゴしたのは初めて(渋谷でココ・シャネルを観て、恵比寿に移動してキャデラック・レコードを観た)。映画ファンにはハシゴをする人は多いようだけど、私は印象がボケるのが普段はイヤでやらない。

今日は、シャネルものについての感想を。

「ココ・アヴァン・シャネル」(オドレイ・トトゥ主演)は、連休初日19日の夕方、いろいろ用事をこなしてからマイカル港北へ出かけて観た。出遅れたかなあと心配していたのだが、まったくもって閑散としていたので驚いた。考えてみれば港北ニュータウン周辺は若いファミリーが多く、シャネルものは不釣り合いだったのかもね。

世間では「ココ・シャネル」(シャーリー・マクレーン主演)が好評みたい。実際22日の渋谷ルシネマはサービスデーだったこともあるだろうが、朝一の回だったにもかかわらず満員御礼。「完全満席」なんていうアナウンスが流れていたな。上映が終わって出ようとしたら、エレベーターホールにまでチケットを求める人が溢れていたのでビックリ。

でも、評判や興行成績は別にして、シャネルという人物がどのように出来上がったのか、シャネルがなぜ革新的なスタイルを提示できたのか、シャネルがなぜいまだにヨーロッパで一流ブランドとして遇されていないのかを知るには、オドレイ・トトゥ主演版の方が断然面白いかも。個人的には、こちらに一票だね。シャーリー・マクレーン主演版は、良くも悪くもハリウッド的な作りなんだよね。作り手の体温が感じられない。

それにしても、オドレイ版は、よくシャネルが全面協力したなあと思う。かなり際どいところまで描いてるからね。それだけ懐が深いブランドとも言えるのかもね。



by naomemo | 2009-09-24 07:45 | シネマパラダイス

女たちの自由への欲求

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日本では、結婚式にのぞむ新婦を「花嫁さん」と呼び習わしている。結婚したての女性のことを、祝福のニュアンスを込めて、そう呼ぶこともある。おそらく、長い人生からみれば「花嫁さん」という存在が、ほんのひととき現実から隔離された存在であることを、大人たちが知っているからに違いない。花嫁というのは、繭に包まれた幸福な存在なんだよね、普通は。

ところが、先日アルテリオで観た映画「シリアの花嫁」に登場する花嫁モナと家族にとっては、そこのところがじつに微妙である。生まれ育ったゴラン高原の村から、本国シリアで待つ花婿のもとへ嫁いでいくことが、彼女を育んでくれた土地や家族との永遠の別れに直結しているからだ。境界線を超えてシリア側へ踏み出してしまえば、もはや後戻りはできない。たとえ親元に戻りたくなったしても、おそらく二度と故郷の村に足を踏み入れることができない複雑な状況を、観客もスクリーンを通して少しずつ理解していく。

舞台となっているゴラン高原は、もともとシリア領だった。しかし、1967年の第三次中東戦争時にイスラエルによって占拠され、いまもって本国シリアとは軍事境界線で分断されたままの状態である。シリア側がゴラン高原をシリア領と考えているのは当然のことだが、占領側のイスラエルもゴラン高原を自国の領土とみなしている。住民たちにもイスラエルへの服従を強いている。住人たちのパスポートの国籍欄には、無国籍者と記されている。彼らはイスラエルの手で人為的に分断された牢獄に住んでいるようなものである。

花嫁モナの一家は、イスラムの少数派であるドゥルーズ派に属している。一家だけでなく、ドゥルーズ派の村なのかも知れない。どこまで真実か分からないけれど、長老支配がすみずみまで行き渡っていて、花嫁モナの嫁ぎ先も、おそらく長老たちが決めたことなのだろう。閉じられた場所に息づいているがために、ここのドゥルーズ派は、よけいに頑迷の度を深めているのかも知れない。

政治的、宗教的、民族的に対立するイスラエルという国とシリアという国の狭間で揺れ動く家族。自由が許されない、息苦しいまでに保守的な男社会から遠くへ遠くへ飛び出したい思いに突き動かされる女たち。境界を超えた先にも、ひょっとしたら、もうひとつの牢獄が待っているだけなのかも知れないのに。そうと分かっていても抑えがたい思い。

もし遠い将来、万に一つでも、この複雑な中東社会に変化が起きるとしたら。その原動力となるのは、きっと、ここに登場する花嫁モナ、その姉、その母のような存在、つまり普通の女たちの強い思いに違いない。そんなことを夢想したくなるほど、この映画には、女たちの、自由への抑えがたい欲求が溢れている。ラストシーンで、軍事境界ゾーンをゆっくり歩み出して行くモナの背中には、凛とした強さが漂っていた。



by naomemo | 2009-09-17 06:13 | シネマパラダイス

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早朝の森のなかは、すでに秋の虫の音でいっぱいである。今年は、残暑とも無縁、ということになるのかも知れないな。

先週土曜日はいつものようにスポーツジムでゆっくり汗を流したり、痛めている肩のリハビリに行ったり、そして夜には連れ合いと久しぶりに多摩川の花火大会を観に行ったりして過ごした。帰りがけに、毎年観に来ているという知り合いとバッタリ会ったが、これほどの人出は初めてだとか。休日を近場で過ごす人が増えているのかも知れない。

日曜日は、新百合ケ丘まで足をのばす。アルテリオ映像館(川崎アートセンター内)で「シリアの花嫁」を観たり、本屋をブラブラしたり、レコード屋でCDを物色したりしたのち、のんびり帰宅。家の中のことをいくつか片付け、来週日曜日の衆議院選挙の期日前投票に出かけ、一票を投じてくる。それにしても、自民か民主か、という二元論になっているのが気になる。「郵政に賛成か反対か」がもたらしたのと、けっきょく同様のことになるのではないかと心配である。小選挙区制度見直しに、もう一票を投じたい気分である。

「シリアの花嫁」の感想は、後日。

ところでアルテリオ映像館に足を運んだのは初めてなのだが、驚いたのは、そこには今村昌平がカンヌ映画祭で貰ったパルムドールの実物が展示してあったことだ。くわしい事情は知らないが、ちょいと調べてみたら、どうやら今村昌平が発起人となってできた日本映画学校が昭和60年に新百合ケ丘に移転、おそらくその流れが起点となって「しんゆり映画祭」が動きだし、やがてアルテリオという単館系の映画上映館の開設へ、ということだったのではないか。それにしても単館系の映画上映館を維持するのは、容易なことではないはずだ。アルテリオの会員になったので、これからときどき足を運ぼうと思う。

それにしてもパルムドール(黄金のしゅろ)は一見の価値ありですよ。

by naomemo | 2009-08-24 08:30 | シネマパラダイス

見逃している映画


さほど忙しいわけでもないのに、ぜひ観たいと思いつつ見逃した映画が今年もいくつかある。

「ロルナの祈り」。昨年末、恵比寿で予告編を観て、なかなか面白そうじゃんと思ったのにね。でも、たしか来週末から三軒茶屋で上映されるので、見逃さないようにしなくちゃ。



「英国王 給仕人に乾杯」。これについては、じつはチケットが手元にあったにも関わらず、見逃した。ある日、仕事を終えて有楽町の映画館に向かっていたら、バッグのサイドポケットに突っ込んである携帯が震えた。あー、残念。でも、近々、早稲田松竹でやるようなので忘れないようにしないとね。



「四川のうた」。これもどこかで予告編を観て、気になって候補に入れていたのだが、見逃した。



「シリアの花嫁」。これは、明日から2週間、クルマで20分ほどの新百合ケ丘の「アルテリオ・シネマ」で上映が決まっている。ここはまだ行ったことがないから、行ってみよう。



「そして、私たちは愛にかえる」。ロードショウの後、飯田橋のギンレイに回ったようなのだが、見逃した。名画座情報を調べても、いまのところ上映の予定はない。観られないとなると、なおさら気持ちが募るものだな。



それにしても、映画の感想って、ほとんど自動的に「芋づる式」に言葉が出てくる場合もあれば、何度も何度も反芻しないと言葉にならない場合もあるのだよね。映画の善し悪しとは関係ないようなんだけど、なんでだろうなあ。

ずいぶん時間が経っているのに、まだ感想を書いていないものもある。「マンマ・ミーア」、「Into The Wild」、「レスラー」、「ディア・ドクター」、「それでも恋するバルセロナ」。それぞれ面白さはあるのだが、なんとなく手が動かない。なにかきっかけが必要なのかも知れない。 そのうちに、一作品ごとに一行コメントでも書いてみるか。

by naomemo | 2009-08-21 07:15 | シネマパラダイス

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先週の金曜日、仕事帰りに三軒茶屋で途中下車。三軒茶屋中央劇場に立ち寄り中東レバノンの映画「キャラメル」を観る。最近、中東映画が面白いと聞いていたが、この作品も例外ではなかった。

レバノンといえば「内戦」とか「テロ」という言葉と分ちがたく結びついていて、政治対立や宗教対立の激しい国というイメージがある。それはたしかにひとつの真実だろうが、この映画を観ると、マスコミを通じて知る中東についての情報がいかに偏っているかを、あらためて感じる。

舞台は、首都ベイルートの小さなエステサロン(ヘア&エステ)。女性が「美しさ」を求めて通う場所であるエステサロンが、名作「スモーク」の煙草屋のように、この映画のヘソになっている。ここは、登場人物たちが、自分をさらけ出し、支え合い、許し合える、ある種の避難場所、あるいは公然たる秘密の場所といってもいいかも知れない。

サロンに出入りする常連メンバーは5人の女性。オーナーのラヤール(キリスト教徒・30歳)は妻子ある男性との不倫に揺れ、ヘア担当のニスリン(イスラム教徒・26歳)は結婚を間近に控え婚約者にも実母にも明かせない秘密に揺れ、シャンプー担当のリマ(24歳)は黒髪の女性客に気持ちが揺れ、常連客のジャマル(年齢不詳)は年齢という現実に揺れつつオーディションを受け続け、そしてサロンのご近所で老いた姉を抱えながら仕立屋を営むローズ(60歳)は別の人生への一歩に揺れる。それぞれが、それぞれの問題を抱えながら揺れ動くシーンが、淡々と、美しく、ユーモラスに、親密なまなざしで描かれて行く。大きな事件などは、ひとつもない。

たとえばローズの場合。逢い引きに出かける準備をするシーンで、老いた姉の嫉妬に手を焼き、部屋に閉じ込める。でも、結局出かけるのを諦め、化粧を落とす。鏡に映ったローズの表情は胸に迫るものがある。たとえばニスリンの場合。嫁ぐ前夜、実母が、初夜の心構えや妻としての心構えを伝えるなかで、こんなセリフを言う。「先の人生は神様だけがご存知。メロンと同じで切ってみるまで分からない」。毎度、毎度の内戦やテロの報道の裏に、ささやかだけれど、しかし宝石のような人生の断片があるのだよね。

そうだ、だいじなことをひとつ。物語の終盤に、サロンのオーナーに心を寄せる警官がエステにやってくるシーンがある。彼は「キャラメル」で脱毛され、ヒゲを剃られるのだ。男社会に対する、ナディーン・ラバキーからの優しくも強烈なパンチである。ちなみに、「キャラメル」は、中東では女性の脱毛に使われるものだそうだ。重要な小道具として、たびたび登場する。

監督:ナディーン・ラバキー/脚本:ナディーン・ラバキー、ジハード・ホジェイリー、ロドニー・アル=ハッダード/音楽:ハーレド・ムザンナル/キャスト:(オーナーのラヤール)ナディーン・ラバキー、(ヘア担当のニスリン)ヤスミーン・アル=マスリー、(シャンプー担当のリマ)ジョアンナ・ムカルゼル、(ジャマル)ジゼル・アウワード、(仕立て屋ローズ)シハーム・ハッダード。信じがたいけれど、ニスリン役も、リマ役も、ジャマル役も、ローズ役も、プロの役者ではなく、全員がそれぞれ仕事を持つ素人を起用しているそうだ。きっと役者の生かし方が素晴らしいのだろう。



by naomemo | 2009-08-18 07:55 | シネマパラダイス

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以前、渋滞に巻き込まれて「劔岳 — 点の記」を見逃したことを書いたが、やっとありついた。久々に正統派の日本映画を観た気分になった。

なにはさておき、壮大な自然がどんと真ん中にあり、そこに人間のドラマが織り込まれるという作法がいいね。北アルプス立山連峰の映像が、とてつもなく美しい。さすが腕利きのカメラマンが監督しているだけのことはある。その映像に酔いつつ、しかし、あれれ?と訝しく感じたのが、ヴィヴァルディ、ヘンデル、バッハなどのバロック音楽が使われていることだった。しばらくのあいだ、ミスマッチじゃないの?と気になった。

なかでも何度も登場するヴィヴァルディは、海の都ヴェネツィアが生んだ音楽家である。その音楽のそこかしこには潮の香りが漂っているのだ。それを山の映画に使うとは、という思いがしばらく拭えなかった。けれど、不思議なもので、観ているうちに違和感が薄れて馴染んできた。ヴィヴァルディの「四季」は、潮の香より季節の匂いが勝っているということなんだなと、再認識する機会にもなった。そのように持っていった音楽監督に拍手なのかな。

時代は明治40年(1907年)。日露戦争後、陸軍が国防のために日本地図の完成を急いでいた時期。その日本地図に残された最後の空白地帯、北アルプス立山連峰を埋めるべく、陸軍参謀本部陸地測量部の測量手・柴崎芳太郎に命令が下る。劔岳に登頂し、三角点標識を設置して測量を行うべしと。

しかしことは容易ではない。劔岳はたんなる山ではない。立山修験という山岳信仰の対象であり、ご神体なのだ。そして同時に「地獄の針の山」として畏れられている峻険な山でもある。あだやおそろかに登頂などしてはならないし、登頂できるものでもないのだ。それが「土地の気分」として濃厚に漂う。案内人として協力を惜しまない宇治長次郎などは、村八分のような扱いを受けているように見える。

劔岳への初登頂を目指すライバルとして、創設して間もない日本山岳会が登場する。もちろんメディアが見過ごすはずもない。お決まりのごとく、陸軍が勝つか山岳会が勝つかと騒ぎ立てる。メディアが騒げば騒ぐほど、陸軍サイドは「威信にかけて」初登頂を成し遂げよと測量隊にプレッシャーをかける。メンツというのは恐ろしいものだ。いつのまにか本来の目的や意味が打ち捨てられてしまうのだから。

結果としては、測量隊が初登頂を遂げるのだが、登頂のヒントになったのは、「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」という千年前から言い伝えられている行者の言葉だった。

ところどころだれる場面が散見された。もう少し冷たく突き放して編集できたのではという気もする。とはいえ、それもこれも、美しい映像と、骨太の物語と、案内人を演ずる香川照之の素晴らしい演技が埋め合わせてくれた。彼の、案内人としての、その話し方、その表情、その仕草、その歩き方は、まあ、みごとというほかない。楽しみました。



by naomemo | 2009-08-15 07:25 | シネマパラダイス

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戦争の忌まわしい記憶を絶対に風化させてはならない。長い歴史のなかで幾度も悲惨な状況を経験してきた欧州には、二度と戦争を起こしたくないという強い志のようなものがあるようだ。その志が第二次大戦後60年以上経過したいまも引き継がれており、ときおり映画にも色濃く現れる。ともすると戦争讃歌とも受け取れる映画を好んで製作する米国とは、一線を画すところだと思う。

物語は、一人の男が、窓から外を覗くシーンから始まる。映画の文法にのっとって、窓は、タイムスリップの装置として存在している。通りを走る電車の中に、少年の姿が見える。その少年が、こんどは男の方を見返す。現在からの視線と過去からの視線が交錯し、観客の視線に重なっていく。

1958年。復興途上にあるドイツ。ティーンエイジャーのマイケルは、20歳ほど年上の女性ハンナと偶然出会う。そして恋に落ちる。マイケルはそれを求め、ハンナはそれを受け入れる。ハンナが進んで求めたようにも見える。30代半ばの女性が、10代半ばの少年を、それほどたやすく受け入れるものだろうか?孤独ゆえだろうか?観客は、ひとつの「?」を抱えたまま、物語に身を委ねる。

ハンナは物語をこよなく愛している。しかし、自分から本を読むことはない。いつもマイケルに朗読を頼む。いつのまにか、マイケルに身を委ねるのと、マイケルの朗読に身をゆだねているのと、ほとんど等価のように見えてくる。というより、ハンナは朗読の見返りに身を委ねているように見える。この不思議な関係はいつまで続くのだろうと思い始めた矢先に、ハンナは、市電の車掌としての仕事ぶりが会社から評価され、内勤への異動を命じられる。

ハンナはマイケルの前から姿を消す。映像では紹介されないが、マイケルはハンナの行き先を求めて、あちこち探しまわったに違いない。しかし、杳として行方は知れず。なぜ彼女が去ったのか、マイケルには思い当たる理由はなにもない。観客にも、その理由は明かされない。だから観客も、マイケルの気持ちに寄り添って、時の流れに身を委ねることになる。

1966年。法学生となったマイケルが授業の一環で傍聴することになった裁判の被告席に、ハンナが登場する。ハンナは、戦争中、看守としてナチに加担した罪を問われ、裁かれる女性達の一人としてそこにいた。彼女は、一緒に裁かれる女性達の不当な証言を受け入れて、無期懲役の判決を受け入れる。受け入れる必要のない罪まで、なぜ受け入れる気になったのか。彼女は何を隠しているのか。かつて何を隠していたのか。ひと夏のこととはいえ、ハンナと愛し合ったマイケルだけは、その理由を理解する。そして同時に観客も知らされることになる。それにしてもなぜ?という思いが残りはするが。

1976年。裁判から10年。弁護士になり、結婚と離婚を経験したマイケルは、ふたたびハンナの朗読者になることを決意する。オデュッセイ、ドクトル・ジバゴなど、何冊も何冊も、テープレコーダーに向かって朗読し、録音し、獄中のハンナに送り続ける。その録音テープから流れる朗読が、ハンナの生きる糧となる。それは彼女にとって、かけがえのないものだったに違いない。

さらに幾歳月が過ぎ、老いたアンナは釈放されることになる。マイケルは刑務所の担当官からの連絡で知らされ、面会に訪れる。刑務所の担当官からの依頼で、落ち着き先やら仕事やらを手当してある。が、その面会で、マイケルはハンナに問う。過去の出来事をどう考えているのか、と。彼女は答える。Dead is dead=亡くなった人は生き返らない、と。この期に及んで、そんな質問をするところに、マイケルが抱え込んできた、愛やら苦しみやら恨みやらが如実に表れている。そしてハンナの失踪ゆえに負うことになった精神的な未熟さも露になっている。

エンディングがしばし不可解だった。いろんな意見があるだろう。しかし、いまは、この初老を迎えた男の未熟さを強調するための方法なのだろうなと、僕は思っている。脚本:デヴィッド・ヘア、監督:スティーブン・ダルドリー。彼らは、「めぐりあう時間たち」に続き、素晴らしい作品を届けてくれた。抑制の利いたダルドリーの演出に、拍手。ハンナ役:ケイト・ウィンシュレットの演技も二重丸である。



by naomemo | 2009-07-24 09:14 | シネマパラダイス