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「はじめてピナの舞台を観た時、私は感情を解き放ち、とめどなく泣いた。人生初の経験だった」。監督ヴィム・ヴェンダースの言葉だ。衝撃的な出会いだったんだね。すぐに映画化を思い立ったようだが、実際にこうして「ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」として結実するまでに20年の歳月を要している。

方法論を思いつかなかったからだというのだけれど、しかしこれはいかにもヴェンダーズが得意とするインタビュー多用型ドキュメンタリーの方法論で撮られており、それ以上でもそれ以下でもないと思う。すでにこの世にいないピナを描くのに、そしてピナが追い求めていたダンスを描くのに、これほど相応しい手法はないと思う。だから20年の歳月が流れたのは、おそらく別のところに理由があるだろうと勝手に思っている。

ピナはダンサーに向かって言う。「もっとクレイジーになりなさい」「ずっと探し続けなさい」と。それはダンサー自身が「自己を解き放つ」ことであると同時に「魂の深みへダイブする」行為を促す言葉であるに違いない。

そうした行為は、脳化が進んだ現代において身体性を恢復する作業ともなるはずだけど、同時に大きな危険を伴う行為でもあると思う。ピナという導師がいて、たぶん可能なことだったに違いない。そんなことを、このヴェンダースの映像作品から強く感じた。ピナも凄いけど、ヴェンダースもスゴかね。




by naomemo | 2012-03-19 18:40 | シネマパラダイス

原田芳雄、初受賞!

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原田芳雄が、自ら長年企画を温めていた「大鹿村騒動記」で、日本アカデミー賞主演男優賞を初受賞。良かった、良かった。とにかく良かった。

この作品、じつは昨年のロードショウで見逃した。ようやく観ることが出来たのは先月12日だった。めちゃんこ面白かった。映画館のなかで、何度も何度も笑いが巻き起こった。

江戸時代から300年に渡って連綿と受け継がれ上演され続けて来た大鹿歌舞伎を、その上演に関わる村人たちの人生模様を描いたものだが、なかでも、風祭貴子(大楠道代)をめぐって繰り広げられる、夫・風祭善(原田芳雄)と、善の友人で間男でもある能村治(岸部一徳)のかけあいが、なんとも可笑しく、哀しく、じつに味わい深かった。

大鹿歌舞伎に演芸の原点を見ていた原田にとって、今回の受賞については、天国で喜んでいるに違いない。あらためて、合掌。




by naomemo | 2012-03-02 23:30 | シネマパラダイス

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昨晩、仕事から帰宅して晩ご飯を食べながら、2012年の米アカデミー賞授賞式ダイジェストをwowowで観た。今年のアカデミー賞は、世界の今がまだらに垣間見えて面白かった。

監督賞、作品賞、主演男優賞といった主要部門をほぼ独占したのは、なんとフランス人が作った無声映画「アーチスト」。その向こうを張るかと見られていた3D映画「ヒューゴの不思議な発明」は、視覚効果賞、録音賞、音響編集賞、美術賞、撮影賞。ありていに言えば周辺の賞に留まった。

結果として、ハリウッドが今後に期待をかけている3D作品が、古き良きスタイルの後塵を拝した形となったわけだ。

その流れで気になったのが、脚色賞をとった「ファミリー・ツリー」。どうやら米国はますます、古き良き時代を、先祖帰りを望むようになってるなあと感じる。米国が内向きモードに入った(ように見える)ことは重要だと思う。

そして、メルリストリープが主演女優賞を受賞した「マーガレット・サッチャー」。「規制緩和、自由化」を旗印に、黄昏の英国を不死鳥のように蘇らせたサッチャーが映画になるというのも、今だね。とにもかくにも、サッチャーが進めた新自由主義の負の遺産がリーマンショックなんだから。

もうひとつ驚いたのは外国語映画賞がイラン映画の「別離」に決まったこと。イラン映画にはクオリティの高い作品がとても多いけれど、まさかユダヤ資本のハリウッドが、米国ともイスラエルとも犬猿の仲であるイランの映画にアカデミーを賞を与えるとは。よほどの傑作なのか、なんらかの政治的な意図があるのか。映画というのは時代を映す鏡だね。

最終的に、ぜひ観てみようと思った作品は以下の4本。
◎「アーチスト」(これはいうまでもなく)
◎「マーガレット・サッチャー」(どう描いているのか)
◎「裏切りのスパイ」(ゲイリーオールドマンを観たい)
◎「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」(久々のダルドリー作品)

by naomemo | 2012-02-28 23:50 | シネマパラダイス

ダビデの星型ワッペン

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これまで欧州系の映画を観ている時に、おそらく何度も目にしていたに違いない。けれど、あまり気に留めてこなかったことがある。それが何かといえば、ダビデの星型ワッペンの存在。

先日観たフランス映画「サラの鍵」に、少女サラが収容所を脱走する際ワッペンを胸元から引き千切るシーンがあり、思わず息を飲んだのだった。

第二次大戦当時、欧州のユダヤ人たちは、外出の際、ダビデの星を模したワッペンを胸に付けることを強制されていたのだった。一目でユダヤ人と区別できるように、刻印を押されていたようなものだ。

もうひとつ改めて感じたこと。当時のユダヤ人排斥は、ナチだけが行ったことのように思われているけれど、実態はそうではなく、間違いなく欧州の総意だったのだろうと思われることだ。

国が内向きになると、土地を持たず、国境という発想を持たない民族は、排斥の憂き目に会う。これは歴史の教えるところだ。数年前からフランス国内で始まっているというロマ(ジプシー)の排斥も同様の文脈だろう。

とすると欧州に相当数いると思われるトルコ人はこれからどうなるんだろう。EU加盟を前提に安価な労働力として受け入れられてきたけれど、肝心のEU加盟は進んでいない。なんとなく気になるね。

経済原理だけで移民推進を唱えてる人がいるけれど、こうした状況を見ていると、それがいいこととは俄かには思いにくい。




by naomemo | 2012-02-23 15:15 | シネマパラダイス

哀しい映画だった


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昨年の311以来、長く休んでいた映画館通いに、ようやく本格復帰できたかなという感じ。きっと長い休みの反動なんだろうね、いまはのところ週一回のペースで足を運んでいる。そのうちに落ち着いて、以前にように月2本程度のペースに戻るだろうけれど。

さて、イニャリトウ監督、バルデム主演の「ビューティフル」の後、「サラの鍵」、「大鹿村騒動記」と立て続けに観た。どちらが面白かったかといえば、圧倒的に「大鹿村騒動記」だったんだけど、今日のところは「サラの鍵」についてのメモを少しだけ。

この作品、第二次大戦時のフランス政府によるユダヤ狩り、という史実をベースにしたドラマ。ナチじゃなく、フランス政府によるユダヤ狩り。じつに心の痛むストーリー。だけど、正直、映画としては設定に少し無理があるなあと思いつつ、最後まで観た。

それにしても、ちかごろユダヤ問題をテーマにした作品が増えて来た。

ひょっとしたら、欧州に、反ユダヤ感情が静かに頭をもたげつつあるのかも知れない。そして、そうした徴候を敏感に察知している映画人たちが、その成行きに危惧を抱いているのかも知れない。そんな気持ちが離れなかった。

by naomemo | 2012-02-17 17:46 | シネマパラダイス

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およそ十ヶ月ぶりに足を踏み入れた映画館は、場末の二番館。場末なんて書くと叱られるかも知れないけれど、三軒茶屋に昔からある三軒茶屋中央劇場は、建物の外観といい、設備の古さといい、銀幕を覆う古びた深紅の緞帳といい、緞帳の色にマッチした深紅の客席といい、まさに「場末の映画館」を絵に描いたような劇場なんである。場末と言って悪ければ、昔の映画館である。

でも、この場末感を味わいたくて、ここに来た。観たかったけれど見逃していた作品、"Biutiful"(ビューティフル)がかかっていたし。題名が"Beautiful"と綴られず、"Biutiful"となっていることには、もちろんそれなりの意味があるけれど、それは観た人には伝わるから、ここでは触れない。二言三言で伝わるようなことじゃないし。

イニャリトウ監督を知ったのは、ショーン・ペン主演の「21グラム」によってだった。けれど「観たい映画監督の一人」になったのは、「バベル」という作品を通じてだった。ただ、ガエル・ガルシア・ベルナルの出世作ともなった「アモーレス・ペロス」から前作「バベル」に至るまで、なんとなくリクツっぽさが拭えないところがあった。アタマで作ってる感じが否めなかった。それが、この「ビューティフル」では一掃されていた。

いうまでもないことだが世界はとても複雑怪奇であり、だからこそイニャリトウはその複雑さを描くために、さまざまな手法を試してきたように見えるのだけれど、今回の作品は、その器用さを捨て去って取り組んだように見えた。映画のなかの物語は、太く真っすぐに伸びる一本の道だった。じつにシンプル、そして深かった。いや、じつは複雑な問題を扱っているんだけれど、太い幹があって、こんもりとした枝葉がある、そんな体裁になっているからストンと腑に落ちる。

舞台はスペイン、バルセロナの裏町。そこで呻くように生きる一人の男を、二人の幼子の将来を案じながら生きる父親を、別れた薬物依存の妻をどうにか受け入れようとする夫を十全に演じているのが、ハビエル・バルデムである。世界がじつに息苦しい状況にあるということが、バルデムという俳優の身体を通じてズッシリと伝わって来た。ノーカントリーのバルデムも凄みがあったけれど、ここでのバルデムの存在感は並みじゃないね。

もう一回観たいなあと、そう思いながら、この作品を観るには、結果的に最高の環境だった三軒茶屋劇場を後にしたのでした。この映画を観るのに、シネコンという環境は似合わないでしょう。




by naomemo | 2012-02-03 12:16 | シネマパラダイス

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「つみきのいえ」という短編アニメーション作品が気になっていた。ようやく昨日ゆっくり観ることができた。

わずかづつ海面が上昇して、ゆっくり水没していく街がある。そのうちの一軒に住む一人暮らし老人がこの物語の主人公。彼は、海面がフロアに浸水するまで上昇するたび、今の住まいの上にレンガを積み上げて新たな住まいを作って暮らしている。面白いなあ思いながら観ていると、住まいの引っ越しで家財道具を運び出している最中に、うっかり床下へパイプを落としてしまう。

おそらく大切なパイプなのだが、仕方ないねと諦めかける。そこへ小舟の物売りが折よくやって来る。物売りから新しいパイプを買おうと物色しているうちに、ふと潜水服に目が止まる。老人は心変わりしてパイプではなく潜水服を買う。そしてそれを着込んで床の扉を開けて海の中の階下へ潜っていってパイプを拾う。

良かった良かったと思って観ているうちに、老人にはその住まいでの生活が思い出されて陶然となる。老人は、やがて、その床下へ、さらにまた床下へとダイブしていく。床下へダイブするたび、当時の生活が去来して陶然となる。そして、いつしか、最初の住まいが緑ゆたかな平原にあった頃、いまは亡き妻との出会いのシーンが映し出される。

どうやら床下へのダイブとは記憶の底へのダイブそのものなのだった。あるいはたんなる夢なのかも知れないのだけれど、やがて、一人暮らしの老人には、記憶の底にこそ、ゆたかな生活があるのかも知れないなあと思い当たり、じんわり染みてくるのだった。

加藤久仁生(監督)と平田研也(脚本)のコンビが生み出した、なかなか素敵なアニメーションだった。



by naomemo | 2011-07-19 08:24 | シネマパラダイス

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これはトルコ系ドイツ人の映画じゃなく、トルコ映画である。監督はセミフ・カプランオール。昨年のベルリン国際映画祭コンペティション部門でポランスキー監督「ゴーストライター」を抑えて金熊賞を受賞。ということで前から気になっていたので、ちょいと銀座まで足を延ばして観てきた。311以後、映画館から遠ざかっていたので、久しぶりにウキウキ。

しかし、この「蜂蜜」はウキウキするような作品じゃなく、稀にみる静謐な神話的な作品だった。ここは緑ゆたかな山岳地帯にある集落。聞こえてくる音といえば鳥の啼き声、羽ばたき音、虫の音、川の水のせせらぎ、森の木々を渡る風、つましい暮しのなかの音、ときおり交わされる父と子のひそやかな会話、登場人物たちの会話…。ここの暮らしに音楽などというものはない。音楽が現れるのは祭の場面くらいのものだ。

主人公ユヌスは、日本流にいえば小学生の低学年だろうか。おそらくは自閉症で、他人との距離を測ることができず、会話をすることもままならず、うまく友人関係を築くこともできない。こうした例にもれず傍目には唐突な行動を取ることがしばしば。ただ、唯一、父親には心を開いて、ちゃんと言葉を発するし、意思疎通もできる。父親がささやく。息子がささやき返す。二人の間だけに聴こえる声で。まるでテレパシーのように。

息子と母親の関係が濃密なら分かりやすいのだけれど、息子と父親の関係がこれほど親密なのは珍しい。母親が鬼母というわけではないのだから。おそらくこの特殊性はこの監督ならではのものかも知れないし、ひょっとしたらこの世界の扉を開く鍵でもあるかも知れない。

それにしても執拗に少年が通う小学校の授業風景が映し出される。まるで少年の自閉症を露わにするのが目的でもあるかのように。教室の中の少年と、父親の側にいる少年との対比。

ある日、突然、あちこちの木の上に仕掛けた巣箱から蜂が消える。(環境の悪化で蜜蜂が突然消失することはよく知られているが、この神話の中ではなにか別の意味があるように感じる。それが何なのかはよく判らないけれど。)それで、あたらしく巣箱を仕掛けて蜂を採取するために、あらたな場所を探すべく白い驢馬を連れて深い森のなかに入って行った。

数日で帰ってくると思っていたが、しかし待ど暮らせど父親は戻らない。気丈な母親の元気がなくなっていくのを心配そうに見守る息子。このあたりから、この小さな男の子に変化の兆しが現れて来る。そのうちにどうやら転落事故かなにかで亡くなったという村人の話。それを聞いて息子は、飼っている鷹の飛翔に案内されるかのように、一人で森へ分け入って行く。暗い森の奥で、大木の根元に抱かれるように眠る息子。そこでこの映画は終わる。なんだか黙示録のような映画だった。この作品は三部作の最後を飾るものらしい。先立つ二作を観なくては、ちょっと分かりにくいのかもね。




by naomemo | 2011-07-14 13:08 | シネマパラダイス

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松たか子が主演する映画「告白」を見た。ほとんど崩壊している教室(これは実態に近い)。いたいけない一人娘を亡くした女性教師。母の愛情に飢えた成績優秀な少年。父親の存在感がうすい家庭の過保護な母と息子。若くて能天気な熱血男性教師。

松たか子が演じる女性教師は娘の死因が事故ではなく生徒による犯行であることを突き止め、決然と復讐を決意する。自ら手を下すことなく、用意周到に、言葉で人心を操りながら、犯行に及んだ少年たちを自滅に導いて行く。その復讐の物語が、主要な登場人物の告白という形式で描かれていく。

現代ではもちろん禁止されているが、仇討ちは、江戸時代まで、少なくとも武士階級においては、一定のルールに従って行なうのであれば法的に許される行為としてあった。あるいはそのように無念や憤懣を晴らす捌け口を設けることで社会の安定を図っていたのかも知れない。あるいはそれが多少なり犯罪の抑止につながっていたかも知れない。仇討ちは、悪なのか、それとも、正義なのか。悪と正義はコインの裏表なのか。

それにしても「告白」は恐ろしく、そして哀しい物語だった。




by naomemo | 2011-06-17 09:15 | シネマパラダイス

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ずいぶん時間がかかったけど、「1秒24コマの美」(古賀重樹 著)を読み終えた。日本映画がピッカピッカに輝いていた時代の三人の監督、黒澤明、小津安二郎、溝口健二それぞれの作品と人間の核心に迫る力作エッセイである。一本一本の作品を眼を皿のようにして(たぶん)何度も凝視し、関係資料をつぶさに渉猟し、さまざまな人物に親しく取材した上で、丁寧にまとめられた本だった。久しぶりに、往年の名画にたっぷり浸ってみたくなったよ。

(目次)

1黒澤の夢
(1)ゴッホの鴉を飛ばせ
(2)セザンヌになりたい
(3)鉄斎のように
(4)フィルムに描く

2小津好み
(1)背後の名画
(2)煙突、原っぱ、洗濯物
(3)モダンボーイの梁山泊
(4)相似形が壊れるとき

3溝口神話
(1)完全主義者の闘い
(2)不屈のアバンギャルド
(3)生身の女
(4)世界映画へ

以下は、自分用の抜き書きメモ。

(黒澤明)
◎風、そして雨。黒澤映画の名シーンはその多くが荒天だ。西部劇の神様ジョン・フォードは愛弟子アキラに言った。「君は本当に雨が好きだね」。
◎「埃、風、雨、炎…黒澤作品のいずれをとっても自然の基本的要素がそこに登場する」シドニー・ルメット
◎一瞬の風は運命を変える。風をはらむ旗は黒澤映画のシンボルだ。
◎黒澤の画コンテはまず第一義的にスタッフに意志を伝えるツールであった。

(小津安二郎)
◎「絵」はすべて監督の頭の中にあった。撮影はそれを再現し、フィルムに焼き付ける作業だった。
◎相似形の構図や動作の反復。名画のように美しく調和のとれた画面に、小津安二郎は存在の不安を潜ませた。
◎小津映画の特徴にカメラを低い位置に据えるローアングルがあるが、これは国芳(歌川国芳)の風景画によく見られる。北斎や広重の多くの浮世絵が俯瞰の位置をとっているのに対し、国芳の視線がぐっと低い。
◎「なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」「芸術は自分に従う」の言葉の通り、小津は自分が気に入らないもの、美しいとは思わないものは画面から徹底的に排除した。例えば終戦直後の作品でも焼け跡の風景はほとんどでてこない。若者たちはいつも身ぎれいな格好をしている。廊下はぴかぴかに磨き上げられ、部屋にチリ一つ落ちていない。
◎日中戦争で37年に招集され、上海に出征。以後、南京、徐州、漢口、南昌など中国戦線を転戦し39年7月にようやく帰還。この間の痛烈な体験が根底にあるのかも知れない。
◎小津安二郎は、構図を浮世絵から多くを学んでいるようだ。

(溝口健二)
◎山田五十鈴は溝口が「女の生活をじつによく知っていらっしゃる」ことに驚いた。「気どり澄ました瞬間や、働いているときの状態ではなく、家庭のなかでの女の自堕落さとか、女のエゴイズム、不潔さ、そういったものをまことに正確に観察しておられる。」
◎溝口健二は女を描き続けた、卑しい男たちにもてあそばれながら、したたかに生き抜く女を。運命に抗いながら、転落する女を。リアリストの辛辣な眼は、気高さも醜悪さも含め、生身の女をまるごととらえようとした。
◎ゴダールが描く女性も、溝口が描く女性も「高貴な精神をもっているのに、男の支配を受け、娼婦であらざるを得ない立場に追いやられる」という。
◎「女性たちは娼婦のように逃げてしまう、手につかめない、離れていく存在をして描かれる。そして女性がそういう態度をとる原因は男性にある」とジャン・ドゥーシェは言う。「これらはすべて売春行為を扱っている。なぜか。それが映画の本質だからだ。」
◎その上でドゥーシェは面白い指摘をする。溝口の映画では「ある映像、あるショットが美しいものになるやいなや、不幸なことが起こる」というのだ。

by naomemo | 2011-06-09 09:18 | シネマパラダイス