往年の名画を見直したくなった

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ずいぶん時間がかかったけど、「1秒24コマの美」(古賀重樹 著)を読み終えた。日本映画がピッカピッカに輝いていた時代の三人の監督、黒澤明、小津安二郎、溝口健二それぞれの作品と人間の核心に迫る力作エッセイである。一本一本の作品を眼を皿のようにして(たぶん)何度も凝視し、関係資料をつぶさに渉猟し、さまざまな人物に親しく取材した上で、丁寧にまとめられた本だった。久しぶりに、往年の名画にたっぷり浸ってみたくなったよ。

(目次)

1黒澤の夢
(1)ゴッホの鴉を飛ばせ
(2)セザンヌになりたい
(3)鉄斎のように
(4)フィルムに描く

2小津好み
(1)背後の名画
(2)煙突、原っぱ、洗濯物
(3)モダンボーイの梁山泊
(4)相似形が壊れるとき

3溝口神話
(1)完全主義者の闘い
(2)不屈のアバンギャルド
(3)生身の女
(4)世界映画へ

以下は、自分用の抜き書きメモ。

(黒澤明)
◎風、そして雨。黒澤映画の名シーンはその多くが荒天だ。西部劇の神様ジョン・フォードは愛弟子アキラに言った。「君は本当に雨が好きだね」。
◎「埃、風、雨、炎…黒澤作品のいずれをとっても自然の基本的要素がそこに登場する」シドニー・ルメット
◎一瞬の風は運命を変える。風をはらむ旗は黒澤映画のシンボルだ。
◎黒澤の画コンテはまず第一義的にスタッフに意志を伝えるツールであった。

(小津安二郎)
◎「絵」はすべて監督の頭の中にあった。撮影はそれを再現し、フィルムに焼き付ける作業だった。
◎相似形の構図や動作の反復。名画のように美しく調和のとれた画面に、小津安二郎は存在の不安を潜ませた。
◎小津映画の特徴にカメラを低い位置に据えるローアングルがあるが、これは国芳(歌川国芳)の風景画によく見られる。北斎や広重の多くの浮世絵が俯瞰の位置をとっているのに対し、国芳の視線がぐっと低い。
◎「なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」「芸術は自分に従う」の言葉の通り、小津は自分が気に入らないもの、美しいとは思わないものは画面から徹底的に排除した。例えば終戦直後の作品でも焼け跡の風景はほとんどでてこない。若者たちはいつも身ぎれいな格好をしている。廊下はぴかぴかに磨き上げられ、部屋にチリ一つ落ちていない。
◎日中戦争で37年に招集され、上海に出征。以後、南京、徐州、漢口、南昌など中国戦線を転戦し39年7月にようやく帰還。この間の痛烈な体験が根底にあるのかも知れない。
◎小津安二郎は、構図を浮世絵から多くを学んでいるようだ。

(溝口健二)
◎山田五十鈴は溝口が「女の生活をじつによく知っていらっしゃる」ことに驚いた。「気どり澄ました瞬間や、働いているときの状態ではなく、家庭のなかでの女の自堕落さとか、女のエゴイズム、不潔さ、そういったものをまことに正確に観察しておられる。」
◎溝口健二は女を描き続けた、卑しい男たちにもてあそばれながら、したたかに生き抜く女を。運命に抗いながら、転落する女を。リアリストの辛辣な眼は、気高さも醜悪さも含め、生身の女をまるごととらえようとした。
◎ゴダールが描く女性も、溝口が描く女性も「高貴な精神をもっているのに、男の支配を受け、娼婦であらざるを得ない立場に追いやられる」という。
◎「女性たちは娼婦のように逃げてしまう、手につかめない、離れていく存在をして描かれる。そして女性がそういう態度をとる原因は男性にある」とジャン・ドゥーシェは言う。「これらはすべて売春行為を扱っている。なぜか。それが映画の本質だからだ。」
◎その上でドゥーシェは面白い指摘をする。溝口の映画では「ある映像、あるショットが美しいものになるやいなや、不幸なことが起こる」というのだ。

by naomemo | 2011-06-09 09:18 | シネマパラダイス