優しく温かい眼差し

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ずいぶん前になるのだけれど、渋谷ルシネマで「エリックを探して」を観た。えーと、いつ観たっけなあ、そうそう、1月4日でした。手帖にメモがなければ、忘れてしまうところだ。

と、まあ、こうして記憶の底に沈みかけた断片をまさぐりながら書き始めているんだけど…、「エリックを探して」は思いのほか心地よい映画だった。ポール・ラバティ(脚本)とケン・ローチ(監督)のコンビが作る作品は、アイルランド独立と内戦の狭間で対立していく兄弟を描いた「麦の穂を揺らす風」といい、英国の移民労働問題を背景に労働者階級の家族の絆の有り様を見つめた「この自由なる世界で」といい、背筋がビシッとした苦みのあるものが多いのだけれど、今回はちょっと様子が違った。

これまでのような社会派的な刃は影を潜め、その眼差しは優しく温かい。これは老境を迎えつつある郵便配達人エリック本人の再生の物語であり、家族の再生の物語であり、地域や職場における人の絆を再確認する物語でもあるのだった。そして、ここには、郵便配達人エリックがこよなく愛するマンチェスター・ユナイテッドの往年の名選手エリック・カントナがエリック・カントナ本人として、重要な役回りで登場する。なかなか面白い登場の仕方をしているんだけど、これから観る人の愉しみを奪ってはいけないので、くわしくは書きません。それにしても、この優しさ、この温かさは、どういう心境の変化なんだろう…。そんな思いを胸に抱きながら帰路についた。電車のなかで、こんなことを想像していた。

英国はいま、80年代から政府主導で強力に押し進められてきた規制緩和、自由化の果てに生じた巨大バブル崩壊の真っただ中にいる。なにしろ国の政策として不動産と金融に特化してきたところがあるようだから、その影響は半端じゃないだろう。おそらく1990年代初頭の日本以上に惨憺たる状況に置かれているはずで、英国民たちは呆然としているんじゃないかという気がする。制作者たちの眼差しが優しく温かいのは、おそらくそんな現実を目の当たりにしているからかも知れないと思い至った。つまり、この映画は、彼らから英国庶民たちへの、精一杯の贈り物なんじゃないかと。

ちなみに英国はいまのところマーケットによる攻撃にはさらされていない。しかし、マーケットという自由化の鬼っ子は、まさにこの映画に登場するヤクザのように、英国を標的にするタイミングを虎視眈々と探っているに違いない。制作者たちの目にも、そのカゲはハッキリと映っているはずだ。この二人の映画制作者は、そうした現実から、さらにどんな作品を紡いでいくのか。愉しいことばかりじゃないんだろうけど、でも、ファンとしては、とても愉しみなのである。

なお、郵便配達人エリック(上の写真右)を演じているのは、スティーヴ・エヴェッツ(Steve Evets=回文になってるな)。初めて見た役者だけど、なかなかいい味を出している。若い頃、売春宿に寝泊まりしていたこともあるらしい。その後、ザ・フォールというロックバンドにベーシストとして参加していたこともあるようだ。シブい脇役が似合いそうな役者なので、これからときどき見かけることになるかもね。




by naomemo | 2011-02-05 12:54