「The reader 愛を読むひと」を観る

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戦争の忌まわしい記憶を絶対に風化させてはならない。長い歴史のなかで幾度も悲惨な状況を経験してきた欧州には、二度と戦争を起こしたくないという強い志のようなものがあるようだ。その志が第二次大戦後60年以上経過したいまも引き継がれており、ときおり映画にも色濃く現れる。ともすると戦争讃歌とも受け取れる映画を好んで製作する米国とは、一線を画すところだと思う。

物語は、一人の男が、窓から外を覗くシーンから始まる。映画の文法にのっとって、窓は、タイムスリップの装置として存在している。通りを走る電車の中に、少年の姿が見える。その少年が、こんどは男の方を見返す。現在からの視線と過去からの視線が交錯し、観客の視線に重なっていく。

1958年。復興途上にあるドイツ。ティーンエイジャーのマイケルは、20歳ほど年上の女性ハンナと偶然出会う。そして恋に落ちる。マイケルはそれを求め、ハンナはそれを受け入れる。ハンナが進んで求めたようにも見える。30代半ばの女性が、10代半ばの少年を、それほどたやすく受け入れるものだろうか?孤独ゆえだろうか?観客は、ひとつの「?」を抱えたまま、物語に身を委ねる。

ハンナは物語をこよなく愛している。しかし、自分から本を読むことはない。いつもマイケルに朗読を頼む。いつのまにか、マイケルに身を委ねるのと、マイケルの朗読に身をゆだねているのと、ほとんど等価のように見えてくる。というより、ハンナは朗読の見返りに身を委ねているように見える。この不思議な関係はいつまで続くのだろうと思い始めた矢先に、ハンナは、市電の車掌としての仕事ぶりが会社から評価され、内勤への異動を命じられる。

ハンナはマイケルの前から姿を消す。映像では紹介されないが、マイケルはハンナの行き先を求めて、あちこち探しまわったに違いない。しかし、杳として行方は知れず。なぜ彼女が去ったのか、マイケルには思い当たる理由はなにもない。観客にも、その理由は明かされない。だから観客も、マイケルの気持ちに寄り添って、時の流れに身を委ねることになる。

1966年。法学生となったマイケルが授業の一環で傍聴することになった裁判の被告席に、ハンナが登場する。ハンナは、戦争中、看守としてナチに加担した罪を問われ、裁かれる女性達の一人としてそこにいた。彼女は、一緒に裁かれる女性達の不当な証言を受け入れて、無期懲役の判決を受け入れる。受け入れる必要のない罪まで、なぜ受け入れる気になったのか。彼女は何を隠しているのか。かつて何を隠していたのか。ひと夏のこととはいえ、ハンナと愛し合ったマイケルだけは、その理由を理解する。そして同時に観客も知らされることになる。それにしてもなぜ?という思いが残りはするが。

1976年。裁判から10年。弁護士になり、結婚と離婚を経験したマイケルは、ふたたびハンナの朗読者になることを決意する。オデュッセイ、ドクトル・ジバゴなど、何冊も何冊も、テープレコーダーに向かって朗読し、録音し、獄中のハンナに送り続ける。その録音テープから流れる朗読が、ハンナの生きる糧となる。それは彼女にとって、かけがえのないものだったに違いない。

さらに幾歳月が過ぎ、老いたアンナは釈放されることになる。マイケルは刑務所の担当官からの連絡で知らされ、面会に訪れる。刑務所の担当官からの依頼で、落ち着き先やら仕事やらを手当してある。が、その面会で、マイケルはハンナに問う。過去の出来事をどう考えているのか、と。彼女は答える。Dead is dead=亡くなった人は生き返らない、と。この期に及んで、そんな質問をするところに、マイケルが抱え込んできた、愛やら苦しみやら恨みやらが如実に表れている。そしてハンナの失踪ゆえに負うことになった精神的な未熟さも露になっている。

エンディングがしばし不可解だった。いろんな意見があるだろう。しかし、いまは、この初老を迎えた男の未熟さを強調するための方法なのだろうなと、僕は思っている。脚本:デヴィッド・ヘア、監督:スティーブン・ダルドリー。彼らは、「めぐりあう時間たち」に続き、素晴らしい作品を届けてくれた。抑制の利いたダルドリーの演出に、拍手。ハンナ役:ケイト・ウィンシュレットの演技も二重丸である。



by naomemo | 2009-07-24 09:14 | シネマパラダイス