グラントリノはウォルトの魂なのか

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長年連れ添った妻に先立たれると、往々にして残された男の方は気弱になるようだ。果てはまるで妻を追いかけるように亡くなるケースもある。ところが、女の方は夫に先立たれても、面倒を見る相手がいなくなるためかどうか知らないが、かえって元気になる人が多いようだ。たとえ経済的な依存関係がどうであろうと、精神的には夫の方が妻に依存しているということなんだろうな。生きる力は、どうも女の方が強いようである。

映画「グラントリノ」に登場する主人公ウォルト・コワルスキーの場合はどうなんだろう。ウォルトも、長年連れ添った妻ドロシーを亡くした。彼は、一本筋が通った男なのだが、有り体にいえば偏屈で頑固で口の悪い爺さんである。一人残されることになって、さらに心が閉ざされたように見える。二人の息子たち家族ともソリが合わない。ご近所との付き合いもほとんどない。見るもの聞くもの気に入らないことばかり。自宅前庭の小さな芝生に他人が入り込むことを毛嫌いする姿などは、なんとなく自閉症を思わせる。そんな親父に、息子たちもほとほと手を焼いている。

彼は、何世代か前にポーランドから米国に移住してきた祖先を持ち、かつて朝鮮戦争に従軍し悪夢のような出来事を体験している。帰国後はフォード・モーターズの工場に勤務し、いまでも72年型フォード・グラントリノの製造に関わったことを誇りとして抱き続けている。ことあるごとに自宅の修繕にいそしみ、毎日のように庭の芝を刈り込み、晴れた日にはときおりグラントリノをガレージから出してはピカピカに磨き上げ、缶ビールを飲みながら日がな一日過ごしている。でも、なぜかグラントリノのハンドルを握ってドライブすることはない。出かけるときは、もう一台のピックアップ・トラックを使う。グラントリノは、宝物のように、大切にガレージにしまい込まれたままなのだ。

ウォルトが住む地域は、デトロイトのベッドタウンのようだが、今ではウォルトの住まいを除いて、どの住まいも手入れされずに荒れ放題、庭の草木も伸び放題である。顔なじみの大半が引っ越ししたり亡くなったりしたあとに、いまでは「新しい移民たち」が住み着いている。かつて光り輝いていたデトロイトの凋落が、そしてまさに今の米国の陰の部分がじつにうまく投影されている。多くを語らない、語りすぎない。説明しなくても伝わるものは伝わる。これはクリント・イーストウッド監督の流儀なのだろう。

そんなウォルトが、ひょんなことから隣に住むモン族の娘スーと弟タオに心を開いていくことになる。ところが、彼らの周辺には同じモン族の不良グループが出没する。どこにもいる類いのワルだが、米国に移民したモン族の第二世代の若者たちで、おそらく米国社会にうまくとけ込めず、さりとてモン族の伝統的な生き方にも馴染めない。それで、安住できる場所をもとめ、仲間を求め、不良グループ化しているのだ。それゆえ自立しようとするモン族の若者を見ると、腹立たしくなってしまう。嫉妬にもいろいろな形があるようだ。そして、ウォルトがスーやタオの盾になればなるほど、不良グループには格好のターゲットになってしまう。やがて悲しい事件が起きる。

それにしても、ウォルトは、なぜ、あそこまでタオを一人前の男に育てることに精力を費やしたのだろうか。戦争中の苦い思い出からの脱出なのだろうか。家族たちへの償いなのだろうか。天国にいる妻ドロシーを追いたかったのだろうか。それとも、自分の魂をタオに預けたかったのだろうか。そんなことを思いながら、映画館の暗闇で、美しい音楽に身を委ね、エンドロールを眺めていたのだった。

ここまで書いて来て思い出した。スーやタオには父親がいない。映画を観ているときには気づかなかったのだが、彼らの母親が、ウォルトに、子供たちの父親役になってくれることを願っていたように思えて来た。ひょっとしたら、ウォルトも、それを感じていたのかも知れない。前作チェンジリングのテーマを「希望」だとすると、このグラントリノのテーマは「償い」ということになるのかも知れない。

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by naomemo | 2009-05-21 07:00 | シネマパラダイス