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「『奥の細道』をよむ」を読む

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動く水は腐らない、という。腐らないのか、腐りにくいのか定かではないが、たしかにそうかも知れないと思う。そういえば、人間の細胞も、つねに新陳代謝を繰り返しているからこそ、生きていられるのだという。外見からはほとんど分からないが、刻一刻、一刻と変化しているのだという。これを逆さまから見ると、水は淀むと腐り、人間は動くことを止めると急速に衰えていく、ということになる。

長谷川櫂著「『奥の細道』をよむ」を読む。芭蕉45歳(1644年生—1694年没)、弥生3月の終わりから始まる、この東北、北陸への旅は、彼にとって大きな転機になったものだという。そして晩年に生み出された傑作群は、この旅を通して得た人生観「不易流行」「軽み」をベースに生まれたものだという。あまりにも有名だが、書き出しの部分を引き写してみよう。

「月日は百代の過客にして、行きかう年も又旅人也。船の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂泊の思いやまず、海浜にさすらえて、去年の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるわせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もも引の破をつづり、笠の緒付かえて、……」

いつの頃からか、切ないほどじりじりと、旅に出たくて出たくて堪らなくなったという気分が、ずんずん伝わってくる。気が狂わんばかりというから、相当なものだ。切れのあるリズムも、その気分をいっそう盛り上げている。ある一定の年齢になると、漂泊の思いが止まなくなるものなんだねえ。当時の45才は、晩年の入口という感覚だったのかも知れないね。

『奥の細道』は、著者の解釈によれば四部構成になっているという。歌仙の連句の形式を踏んでいるのではないかというのだ。たしかに、その四部ごとに俳句のスタイルというか印象が大きく異なることは、私のような素人にも感じられる。さらに、この本は、『奥の細道』という紀行のこと、芭蕉のこと、そして俳句そのものことが、じつによく分かる仕組みにもなっていて、初心者向けの俳句入門書にもなっている。そして、いつのまにやら芭蕉先生のお伴をして旅している気分になってくるから不思議なんだなあ。発句でのお気に入りは。

雲の峰 幾つ崩て 月の山

暑き日を 海に入れたり 最上川

でっかいなあ。なんとも言えないでっかさがいいなあ。ちなみに、上の句は月山の頂上で詠んだもの。下の句は酒田にて日が沈む場面を観て詠んだもの。

「暑き日」を読んだとき、なにかが呼応して、記憶の底から、すっかり忘れていた言葉が浮かんで来た。「また見つかった。なにが。永遠が。海と溶け合う太陽が。」19世紀末の若きフランス詩人の言葉だった。

by naomemo | 2009-04-23 07:00