チェンジリング - 死者の声が木霊する物語

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映画の日に、クリント・イーストウッド監督作品「チェンジリング」を観る。1928年。大恐慌の前年。ロサンジェルス郊外。バブル期特有の喧噪感のようなものは直接写し出されてはいないのだけれど、その代わりに目にすることになるのが警察権力の横暴。なんとでもなるという全能感が世の中を支配している、そういう時代に、というか、そういう時代だから、チェンジリングは起きたということなのだろう。

ある日、息子が消える。しばらくして警察が別の子供を連れて来る。息子ではないのに息子として押し付けられる。こんな理不尽が本当にあったとは、信じ難いほどの愚かさだが、全能感に支配された世の中では、異常と正常が容易に入れ替わる。

それでも彼女はひとりで闘いを続ける。そのうちに精神病院に放り込まれる。犯罪者は監獄へ、云うことを聞かないやつは精神病院へ、ということなのだろう。病院には、「反抗的な女性たち」が大勢放り込まれている。男たちは、女たちの、いったいなにを怖れているのだろう…。

ここにひとつのミステリアスがある。

やがて彼女の闘いを支えることになるのは、長老派の牧師、そして社会派の弁護士。彼女の夫は登場しない。息子の父親に関する言及は一回あるだけ。牧師あるいは弁護士が父親の役割を果たしているようにも見えてくる。

ここにもひとつ、ミステリアスがある。

物語は思わぬ展開を見せることになる。子供の捜索を続ける刑事が、たまたま「息子」につながる一本の糸と遭遇するのだ。やがて、生々しく熱い神話的な別の物語が姿を現し、むくむくと動き始める。それにしても、小羊の血を求める獣の物語が、なぜ、現代の米国社会に脈々と生き続けているのだろうか。

ここにもまたミステリアスがある。

やがて二つの物語が出会い、開かれ、混ざりあい、一つの物語に織り込まれ、大団円に向かっていく。やがて、母親の口から、ひとつの言葉が漏らされる。「あの子の存在を感じるの」。耳の奥に残り、胸の中で静かに広がる言葉だ。どうやら、この物語には、死者の声が木霊しているようだ。

クリント・イーストウッドという監督は、一貫して、米国社会の、あるいは人間の、光と陰の境目を見続けてきた人なんだなあ。当時の風俗も楽しめる。役者たちの演技もじつに素晴らしい。絶品である。



by naomemo | 2009-03-05 07:30 | シネマパラダイス